オリンピック雑感2
多くのトップアスリートが、4年間という月日をかけて、オリンピックに臨む。
勝つにせよ、負けるにせよ、そこには色々なドラマがあるのだろう。鍛え上げられた肉体と技、そしてバックストーリー、これらが我々を共感させ、感動させ、時には衝撃を与える。
終盤にさしかかった北京オリンピックだが、ここまでで、俺にとって一番衝撃的だったのは、土佐選手の棄権するシーンだ。最初に伝えられているような、外反母趾だけではなく、疲労骨折寸前で、7月初旬から走ることができず、とてもスタートラインに立てる状況ではなかったという報道もあった。野口選手の欠場のため、責任感の強い土佐選手は、欠場を言い出せずに、出場することを余儀なくされたのだと。
東京オリンピックの男子マラソンで銅メダルをとった円谷幸吉選手は、メキシコオリンピックの前に、「幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」という遺書を残して、頚動脈をカミソリで切って自殺。享年27歳。
オリンピックに専念するためという理由から、(職場である)自衛隊から婚約を認められず破談となり、そのことに抗議したコーチは遠ざけられ、全くの孤独な状態に陥った。腰椎のカリエスを持病として抱えていたにもかかわらず、周囲の期待にこたえようと猛練習を積むが、かえってオーバーワークのために、腰痛が悪化し、満足いく成績を残すことができなくなっていった。肉体的にも、精神的にも疲労困憊してしまった彼に残された選択肢は、死だけだったのである。
時代も状況も全く違うのだが、土佐選手の苦しそうな姿をみて頭に浮かんだのは、この円谷選手だった。
現在ネットで、星野監督が強調する「日の丸の重み」「代表の責任」について、偏狭なナショナリズムであると批判したスポーツライターのブログが炎上していると聞く。オリンピックは、国というユニットで行う対抗戦であり、その構造からしてナショナリスティックであるということは言うまでもない。そのことを批判するのであれば、オリンピックそのものが成立しなくなる。
国を代表する責任は、確かにあるし、国民の期待にこたえる義務も否定はしない。ただ、その責任を果たすべく、オリンピック本番で勝利するために、ぎりぎりまで自分を追い込むような練習をした上で、不幸にも怪我をしてしまうことはある。
そのアンラッキーな選手が、「皆が期待しているのだから、足が折れても走らなくてはならない」という類の無制限な責任感を感じる必要はないと思うのだ。
一部報道が正しくて、もし土佐選手が、疲労骨折寸前の状態で、そもそも走ることに無理があるのに、42.195KMのスタート地点に臨んでいたとしたら、それはランナーとしての自殺行為だと言えるのではないか?
メダリストのインタビューでは、これまでお世話になった周囲の方や応援してくれた国民への感謝が、決まり文句のように繰り返される。実際には、「これまでお世話になった周囲の方や応援してくれた国民」が、「足が折れても走る」「腕が折れても投げる」といった、犠牲的あるいは、特攻隊的な出処進退を、アスリートに強いているのではないか。
土佐選手は、25KMのところで、陸連スタッフから「もういい」と言われて棄権したらしい。誰かから、「もういいよ」と納得してもらえなければ、いつまでも走り続けたのだろうか?

