« 2008年05月 | メイン | 2008年07月 »

2008年06月29日

蟹工船ブームについて

大学卒業してすぐ配属されたのは、地方都市の鋳物工場。鋳物工場というのは、3Kの典型で、粉塵が飛び、夏は40度を遥かに超え、100ホーン以上の機械音が唸り、フォークリフトが縦横無尽に走りまくる。

その頃独身寮の俺の部屋を、高校を卒業して、即製造現場に配属された同期達が(といっても年が5つ下なのだが)が、時々遊びに来た。彼らは、高養生と呼ばれ教育の一環という名目で、強制的に半年間、寮生活をさせられるのだった。

ある日、5歳下の同期の一人が、俺の部屋に来て、いつものように色々話をしていた。

地元の工業高校のサッカー部員だった彼は、試合のときに、相手の汚いファールに怒って乱闘騒ぎになって、両チームメンバー全員ユニフォームが血まみれになった事件を、楽しげに話していた。(驚くことに、実話だ。彼のいた高校は、地元ではかなりヤバイ高校で、相手校は、その県の海側にある、更に輪をかけてヤバイ高校だったらしく、対戦前から既にガンを飛ばしあう状況だったらしい。 ルーキーズの世界ですね。)

見た目ヤンキーなのだが、実はとてもナィーブで、俺には何故か色々話をしてくれた。彼は、熱血怒涛乱闘話が一段落ついた後、やけにシリアスに「金ちゃんは(年下の癖にこいつらは、俺のことを金ちゃん呼ばわりだった。失敬な)いいよなあ。事務所できれいな仕事をして。俺なんか、毎日うるさい現場で、作業服が真っ黒だぜ。」

俺は、「そんなこと判っていて、会社にはいったんだろうが。それが嫌だったら、今からでも遅くないので、会社を辞めて、勉強して大学へ行け」と。
ヤンキーで乱暴もののくせに、えらく純なところのある彼は、「だって金ないし俺。頭も悪いしさあ。やっぱ無理だわ…」と目を伏せる。俺は、「お前は、単に我慢と努力が足らない負け犬だ。一生汚れた作業服を着て、現場で愚痴でも言っとけ」くらいの勢いでたたみかけたのだった。

今考えると余りに大人気なくて、ホントに心が痛む。
クラブに打ち込み、多くの仲間と楽しく過ごした高校時代から、いきなり3K職場に放り込まれ、周りはオジサンばかりだ。自分で決めた事とは言え、余りのギャップと、この生活が何十年も続くのかと思うと、焦燥感に苛まされていたに違いない。

また世の中理屈どおりにいかない。各個人を取り巻く環境は、夫々ユニークかつ深刻で、「そりゃそうだけど、実際には、色々あって、言うほど簡単じゃないよ」ということもある。

それで、ボソッと愚痴を言ったら、ボサ~ッとした兄ちゃんから、急にガンガン言われて、本当に辛かっただろう。ごめんね。

ただ、表現は乱暴で不適切だし、現実的には、彼個人で何とも出来ない状況があることは事実としても、強い意志と継続的かつ地道な努力のみが、彼の運命を変えていくということ自体は誤っていない…と今も思うのだ。

最近、「蟹工船」が若者を中心にベストセラーらしい。新聞各紙を読んでみたが、国家権力や資本家や資本家の手先に迫害、抑圧され、地獄のような日々を過ごす蟹工船の労働者の姿が、現在のワーキングプアーと称される、貧しい若者をめぐる状況と重なり、共感を得ている~というもので、現代日本社会の歪を表す好例という論調が強い。

俺が、非常に違和感を覚えるのが、以下の基本的ロジックだ。
・ 若者は、蟹工船労働者に、共感し、自分達と同一視、重ね合わせてみている⇒事象A
・ マスメディアは、この事実をもって、「現在の若者の状況=蟹工船の労働者の状況=社会的に弾圧、抑圧されている状況」⇒仮説Bに従って、現代日本社会の歪を批判している。
事象Aは、個人の勝手として、仮説Bは正しいのか?

ご病気を抱えている方や、幼いお子さんを抱えて過剰なハードワークを強いられているお母さんなどが、蟹工船に共感を覚えるのは(彼らが蟹工船を読んでいるかどうか不明だが)、とてもよくわかる。

俺が、引っ掛かるのは、若くて身心ともに健康で何らかの職業に従事しているにもかかわらず貧困層レベルの所得である層だ。(恐らく、蟹工船ブームの中心セグメントだろう)

上述「仮説B」、つまり、国家権力や資本家に様々な自由を剥奪され抑圧される蟹工船労働者と、これら肉体的には健康な若者のどこが重なるのかが、理解できない。(何度も言うが、共感しても、重ねても、何しても、それは個人の勝手だ。)

蟹工船労働者は、危険かつ過酷な業務環境の中、暴力という非常に具体的な形で、生命を脅かされている。時代的な状況として、言論、政治信条、宗教など様々な自由は、厳しく制約され、いわれなき差別も存在し、社会的底辺から抜け出す為の適切な情報へのアクセシビリティも極めて低い。

片や、現代の若者達は、無制約とはいえないまでも、蟹工船時代とは比較にならない自由を享受し、教育を受ける権利も機会も与えられてきた。インターネット、その他マスメディアで色々な情報も入手できる。

彼ら、貧しく抑圧されていると認識をしている若者達と、蟹工船労働者の類似点は、経済的に貧しいということだけであり、その内容は大きく異なる。

健康であるにもかかわらず、何らかの原因で、学歴、専門性やスキルを獲得できないため、高い報酬を得ることが出来ない状況を、自分自身に求めるのではなく、社会、政治、小泉改革のせいだという主張に妥当性があるのか? 兄弟が15人いるので、故郷の家族に仕送りをしなくてはいけない…といった理由でもあれば、それはそれで、納得するのだが、世帯あたりの子供の数が2人を切った少子化時代にそんな例は稀だ。

自分が貧しい事を、環境、社会等の外部要因に求めている限り一生プアーなままだ。経済的にも、精神的にも。

ただ、共感をするのも、自己と重ね合わせるのも、個人の勝手だ。他者が口出す話ではない。問題は「事象Aと仮説Bの因果関係」を検証する姿勢もなく,社会の歪をあげつらうマスメディアの姿勢ではないのか? 因みに、FEペディアでワーキングプアの項をみると、各国の対策が以下のように記載されている。

アメリカでは州立大学に企業の講師を招き、最先端バイオテクノロジーに関する授業料を格安で低所得者に学ばせ、地域の安定した労働者に育て上げる取り組みがなされている。

イギリスでは若者に職業訓練を受けさせ、その期間中は生活費を支払い、就職できるまで見守る取り組みが国を挙げてなされている。

この、身心共に健康な若者のワーキングプアは、従来の失業問題と異なり先進国を中心として見られる現象で、米英での対策が示すように、キーは労働市場で競争力のある専門性獲得にある。社会制度の不備を問うとすれば、そこに議論すべきポイントがある。

「若者達の気持ちはよくわかるよ。全部社会が悪いんだ」と言わんばかりの論調は、マスメディアの巨大なパワーを使った、誤った現状認識蔓延キャンペーンに等しい。(若者に媚を売りたいばかりに、本質を見誤っているとしか思えない)


ところで、ところで…、前述した同期の彼は、一年間勤務した後、お父さんが亡くなられたのを機に、家業を継ぐため退職をした。その後、消息は途絶えたまま…。嘗てのサッカー少年も、既に40歳を越えているはずだ。

今、どんな事を考え、どんな風に生きているのか? 俺との会話を覚えているのか?(ソモソモ俺のことを覚えているのか?) とて

2008年06月23日

兜は凄い

マーメイドから、NHKの新日曜美術館で、凄い事になっている…という話しを聞く。

「日本の美 飾りの喜びを探る」という特集。

その中で、取り上げられた兜の余りといえば余りのぶっ飛び方に、心を奪われてしまったらしい。

前述ホームページ、兜関係の掲示板(兜について真剣に語る掲示板というのがあるんです、驚くことに)などに掲載されている写真をみて、俺も度肝を抜かれた。

兜は、凄い事になっている。

上部に茶碗がついているもの、本物の鹿の角をつけているもの、ウサギをつけているもの、もはや構造物と言う以外形容できない巨大な屏風みたいなものをつけているもの、高さ1M位の円錐型のもの…。

これだけでも相当凄いのだが、更に圧倒的なのが、「黒漆塗執金剛杵形兜」

兜の上に、金剛杵をしっかり握り締めた右腕が突き出している。ここまでくると前衛、現代芸術の領域ではないか。

戦国時代~安土桃山時代には、これら兜を実際に着用し、武将達は戦いに臨んだ。戦場では、俊敏さがないと、あっという間に死んでしまう。馬を疾駆させ、槍を突き出し、鉄砲を避け…というように、スピーディに動けないと、屍を山野にさらす事になる。

ところが、これら兜は、戦闘とは無関係な装飾物を、頭にのっけているので、やたら重い。兜専門掲示板によると、試しに被ってみたら重くて立ち上がれなかったという記述もあるほど。

また、縦にも長いので、遮蔽物に隠れても、兜だけはみ出すし、戦いに敗れて山などに逃げ込んだ時などは、枝に引っ掛かりそう…というか、絶対引っ掛かる。

つまり、騎馬だろうが、歩行しようが、このような兜を着用することは、戦闘には圧倒的に不利なのだ。

では、どうして、こういう兜を被るのか?それは、各々の武将達の美意識。命を戦場でやり取りする殺伐とした時代だからこそ、戦いや死は美しく彩られなければならない。勝てば良いというものではなくて、男伊達を煌びやかに見せつけ、美しく勝たなくてはならないのだ。

実際、兜自体は、今見ると、「お前マジか?」と思うほど、圧倒的に奇抜で、滑稽だ。でも、やっぱり美しい、多分。やせ我慢、拘り、美意識…何と表現していいか分からないが、生命を危険に追い込んでまで表現したい、精神的なもの…というのは、現代の男が失ったものではないか?

人間以外のどんな動物でも、オスは、自らを美しく飾り、拘り、男伊達を競うものなのだ。(大抵の場合、目的はメスの気を惹くためだが) その目的の為には、彼らはとてもストイックで真剣だ。

人間のオスだけが、そういうものを喪失してしまったんじゃなかろうか?最近話題の「人前で泣く男」なんていうのは、美意識の欠如としか思えない。 その癖、この手の輩は、「優しくて良い人」だったりするのだ。ペラペラお喋りが上手とか、料理や洗濯が上手だとか、うわべの優しさとか、愛想が良いことなど、男の値打ちという観点からは無意味だ…と言い切るぜ、俺は。

そんな奴は、あの兜の意味など永遠に分かるまい。

スピード社製の水着など着ている場合じゃないぞ、諸君。着るのに30分かかって、3回着ると、破れてしまうものは、もう水着だとはいえないだろう。着用回数を数え間違えたら、真ッパになるではないか?

黒漆塗執金剛杵形兜を着用するくらいのダンディズムは見せて欲しいものだ。(重さのため溺れて沈んでしまうことを懸念する向きもあると思う。だが、その場合、水面からにょっきり突き出した右腕が助けを求めるので、大事には至るまい)

2008年06月18日

独り言

生きる事は、難しい。

生まれてきたのは、何かを為すためだと信じる。生きている意味や目的を見出そうと足掻く。

生は、何かを達成する為の手段でもあり、そのものが目的でもある。手段や目的が、渾然一体となり、もやもやしながら、過ごす時期もある。

学生の頃は、如何に生きるべきか?という答えの無い問いに、悩んでいた。

最近では、余り難しく考える事は止めてしまった。今日出来ることは、今日全て行う。目の前のことに、軽重関わらず全力を尽くす。シンプルなルールをもち、それに外れることはしない。 

「花神」の中で、大村益次郎が、「人生は簡単でなくてはならない」という意の事を言うのだが、40代半ばにして、感覚的に理解できるようになった。(といいつつ、大村益次郎は、おイネさんと恋に落ちて、人生を複雑にしてしまうわけだが、それもまたよしか)

どうであれ、真剣に懸命に生きていく事は、素晴らしいし、例え市井に暮らす平凡なものであれ、革命家であれ、セレブであれ、同様に大きな意味をもつものだと思う。

秋葉原事件に、言いようのない怒りを感じる。意義深いはずの人生が、本人の意思とは無関係な、何も意味の無い偶然の暴力により、いきなり終りを告げることの不条理さ。

被害者は、恐らく、何が何だかわからないうちに、生まれてきた意味、死ななくてはならない理由~そんな事を考える猶予もなく殺戮されたのだろう。命のこの耐え難いほどの軽さは、一体何だ。

犯人は、精神鑑定上は、正常である可能性が高いという記事を読んだ。

正常である精神をもつ人間が行う極めて異常な犯罪、意味のあるはずの人生の無意味な終焉…大きな矛盾のなかで、我々は生きている。秋葉原事件の被害者にならなかったのは、単なる偶然だ。

そんな社会で納得ある生と死を迎える事は、難しいことなのかもしれない。

2008年06月16日

Prisoner Of Love

親戚の娘さんが結婚するニュースが届いた日、CDを買った。

人間は、社会的動物なので、色々なキャップを被っている。社長だったり、父親だったり、母親だったり、テニスクラブのメンバーだったり、東大卒だったり…。

そういう虚飾(と言っていいかわからないが)を、全て取り去ったときに、どんな感情が残るのだろう。

愛すべき誰かに傍にいて欲しい…独りになりたくない…100%受け入れて欲しい。口に出して言うのは、とても恥ずかしくて出来ない気持だけではないか?

宇多田ヒカルの「Prisoner Of Love」を聴きながら、そんな風に思う。

最初のフレーズだけで、心が鷲掴みされる。 I am a prisoner of love. Stay with meが、何度も何度もリフレインされる。その度に、泣きたいような、哀しいような、締め付けられるような、苦しいような、快ちよいような、不思議な電流が体に走る。

こんな深い場所に、25歳で到達してしまった宇多田ヒカルは、これから何処へ行こうとするのだろう?

2008年06月07日

船場吉兆廃業から学ぶこと

時々だが接待したり、受けたりする。

接待するのも、されるのも、非常に難しい。特に、接待するのは。相手の年齢や役職によって、場所も違ってくるだろうし、会食の目的によっても異なる。相手によっては、「お持たせ」のご用意も必要になるが、季節・価格など考慮にいれて、適切なものを選択する業は、普通に暮らしていると身につかない。

重要なのは、やはりお店もお持たせも、「格」「ブランド力」みたいなものの目利きか…。

そういう観点から言えば、名のある高級料亭というのは、安全策だった。超VIP対応ケースでも、有名な料亭であれば、先方に対する敬意を自然と表現でき、(恐らく)それなりの料理がでてくるので、失礼はない…筈。

船場吉兆事件以来、接待の場を選択するのは、更に難しくなったのかもしれない。

さて、この程、廃業した船場吉兆の保全管理人が、創業者一族の責任追求、個人資産の提供を求める姿勢を示した。

これまでの船場吉兆の迷走ぶりを列挙すると、

1.消費期限、賞味期限表示偽装 売れ残った「黒豆プリン」「桜ゼリー」「抹茶ゼリー(抹茶涼み)」「タルト」「ほうじ茶ケーキ」のラベルを毎日張り直し消費期限或いは賞味期限の表示を偽装

「吉兆天神フードパーク」で販売していた惣菜の内、12商品の惣菜で期限切れ販売

2.地鶏の産地偽装
九州産の牛肉を「但馬牛」、ブロイラーを「地鶏」、等産地や原材料を偽装(10商品)

3.無許可での梅酒製造及び販売
酒類の製造を行うのに必要な酒税法上の許可を得ずに梅酒を製造

4.客の食べ残しの再提供
客が残した料理をいったん回収し、別の客に提供。使い回されていたのは、アユの塩焼き、ゴボウをうなぎで包んだ「八幡巻き」、エビに魚のすり身を塗って蒸した「えびきす」など。


2008年1月16日、約8億円の負債を抱え、大阪地方裁判所に民事再生法適用を申請し、裁判所は保全命令を出した。業務再開後、上述「食べ残し再提供」がトドメになり、この5月末、廃業に至った。

老舗料亭を破綻に追い込んだ原因として、経営陣の過剰な採算重視の姿勢が指摘されている。

営利企業の究極目標は、利潤を極大化することである。そういう意味では、採算重視の姿勢は、間違っていない。ただ、企業活動には、ルールがある。

言うまでも無いが遵法であること。また、顧客に対して価値を提供し、その適正な対価を受け取り、それにより収益を計上すること…という至極当たり前の事ではある。

ただ、船場吉兆の場合は、この基本ルールを2つとも守れなかった。何故なのだろう?

それは、自分達が何物なのか?船場吉兆が、顧客に提供するべき価値は何なのか?について、余りに無自覚だったからではないか?

過去から培われた板前の技術、選び抜かれた高いクオリティの食材、洗練された接客に加えて、質の高いサービスの継続的提供と顧客から寄せられた賞賛の蓄積としてのブランド~これらの総体が、吉兆の提供する価値であり、特にブランドという目に見えない価値が、価値総体の大きなウェイトを占めている。(ユーザーは、目に見えない価値を、明確に認識できているので、「重要な顧客の接待には、高くても吉兆を使おう」ということになる。)

つまり、実際の料理+料理を提供する環境など付帯要因+ブランド=価値の総体>価格(>費用)という関係成立が絶対条件であり、経営陣は、「価値の総体アップ」にフォーカスすべきなのだ。

船場吉兆が行っていたこと、「消費期限、賞味期限表示偽装」 「地鶏の産地偽装」 「無許可での梅酒製造及び販売」 「客の食べ残しの再提供」の根底には、一貫して「原価低減を行い収益性を高めたい」という強い意志が明確に働いている。

これらの行動は全て、積み上げたブランドの信用力を失墜させ、実際提供される料理のクオリティを下げ、顧客への提供価値を著しく下落させた。(おせんさんが、「食物屋が、食物に手を抜いちまったら、お終めぇでやんす」とよく言っているのだが、まさにその通り)

経営者の責任は重い。

2008年06月05日

偶然耳に入った話

毎日の暮らしは、単調で、平板になりがちだ。 穏やかに、平穏に、時が過ぎていく。そんな平凡な日常でも、時にはハードボイルドな世界を垣間見ることがある。

鎌倉駅前に、小さな公園がある。電車を待つ間、煙草を吸っていたら、大きな声で喋っている男性が近づいてきた。

歳のころは、30歳位、背広姿、185センチ、90KGくらいの大男で、風貌は気のいいアンちゃんという感じだ。携帯で誰かと話をしているのが、聞くとはなしに耳に入ってくる...。

「お前は、ビジネスマン失格だ。最初の15分間プレイしたか?ガチでプレイしたのか?」

「お前は、騙されている。い~や、お前は騙されている。絶対騙されている。騙されてんだよ。」

「プレイをしたのか? プレイを」

後輩に、何か説教をしているようだ。やたら「プレイ」を連発している。恐らく客先訪問した際、最初の15分で何か行うのが、彼の会社の流儀なのだろう。「プレイ」の内容が何なのか?物凄く気になる。「プレイ」と言うからには、何かとっておきの、あっと驚くパフォーマンスであるに違いない。

俺の気持ちを知ってか知らずか(勿論知らない)、「プレイ」の話しは、突如終わり、次のトピックへいきなり移る。

「沖縄の、ミカワのところ、摘発されてさあ。今じゃあ、残りはタイ人だけらしいぜ。大笑いだよな」

摘発? タイ人? ミカワって誰?どんだけ、ヤバイ仕事をしている人達なのだろう。

「だからさ、最初の15分でさ、プレイしなきゃ駄目だろ。お前はさ、まじ丸め込まれてんだよ。 人を信じちゃ駄目なんだよ、俺達の世界はさあ。ビシッとプレイしなきゃあ、騙されるんだよぅ」

おいおい、摘発の顛末や、タイ人との関係は? ミカワ氏はどうなったのよ? 会話は「プレイ」で始まり「プレイ」で終わった。でも、内容がさっぱりわからないのだ。

俺の頭の中は、馳周星的なディープストーリーが渦巻いているのに、これでは、全然わからんじゃないか。 こんな気持ちのままで、誰と暮らせというの、指と指の隙間、そしていつか埋めたい。

「じゃあご苦労さん、今晩飲みに行こうぜ」そう言って、携帯を切ると、彼は、大股で、由比ガ浜方面へと立ち去っていたのだった。決して俺を振り返ることもなく。まあ、元々、見ず知らずだし。

ハードボイルドな男の世界でも(良く内容は判らないのだが)、最後は、「ご苦労さん」の一言&ノミニケーション…ということみたいだ。 妙に予定調和な終わり方に、ちょっとたじろぐ俺だった。

2008年06月03日

眠れない私(意識は定かでない)

俺は、意外にも、案外繊細なほうだ。

誰からも言われた事はないが、俺自身はそう思っている。繊細か繊細でないか…と言われたら、そりゃあ繊細なほうがいい。何となく、上品で、育ちが良いイメージを漂わせる感じがする。

というわけで、繊細な俺は、色々なことが気になって、一睡もできず、もうフンガラガッタというわけで、ブログを書いている。まだ5時前だ。寝たのが3時半なのに。

昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ♪(井上陽水 「東へ西へ」より)というか、昼寝もしていないのに、眠れないのはどういうわけだ???

体は疲れているのに、神経だけが異常に研ぎ澄まされていく感じというか、目を瞑っても、何か色々考えてしまうというか、あれやこれやで眠れない。このフンガラガッタ。

元々、俺は眠るのが大好きなのだ。どこでも、いつでも眠れるはずなのだ。乗り物にのると、2~3分で熟睡できるのだ。米国出張のときに、成田出発からシカゴ着陸まで完全熟睡したことがある位だ。

寝るといえば、俺の幸福イメージは、クマさんが、先端にぼんぼりがついた細長い帽子をかぶって、パジャマを着て冬眠をしている図だ。暖炉がある、ぬくぬくした部屋で、時々、寝ぼけ眼でのっそり起きてきては、もしょもしょ蜂蜜をなめたりして、また安らかな眠りにつくイメージだ。

睡眠こそ、幸福の源だ。家庭円満の秘訣だ。愛の賛歌だ。米搗きバッタだ。フンガラガッタ。

2008年06月02日

テレビドラマにはまっている私

最近、テレビドラマにはまっている。何と週6本観ている。
まるで、暇なオバサンのようだ。

週に、きっちり6本ドラマをみるのは、並大抵の努力ではできない。そりゃあ、
人に言えない苦労をしていますよ、こんなご時勢ですからね…と何の話か?

蒼井優の、「わっちは~でやんす」という喋りを聞くだけ
で、個人的には、ぐっと癒されている「おせん」。(杉本哲太って、いつも板前役をしてい
ないか…ということは、軽く気がかりだ)

性同一性障害、DV、幼児虐待、不倫…など、一つで充分だろうという
エグイテーマを網羅し、しかも毎回エスカレートするので、どん
どんヤバイ感じが高まっている「ラストフレンズ」。

前回、上野樹里が、密かに愛している女性(長澤まさみ)をみつめるシーンで
は、少年が好きな女の子に送る視線の微妙な感じというのが妙にリアルで、とて
も切なくなった。

このようにオジサン度数が、急激にアップしつつある今日このごろではあるが、問題は、
そういうことではなくて…。

最近精神科医の和田秀樹氏が雑誌コラムで「ごくせん」を批判したことが、ネッ
ト上で話題になっていると聞く。

和田氏の論点としては、以下のとおり。
1. 概して、「秀才=悪」「不良=心はきれい」というメッセージが強い
2. 進学校生徒の犯罪発生率などのデータによれば、実際には「勉強をしてい
る子の方が、不良よりはるかに安全」
3. つまり、子どもに勉強させた方が、犯罪者の比率が低くなる、確率が高い
4. このような番組は勉強ができない人間の価値観を強化し、ますます格差を
広げる結果になる危険性がある
5. つまり、「ごくせん」を見ている子供が、『人間性がしっかりしていれば
いい』と勉強しないことを正当化してしまう。そのことが、学力格差、生活格差
の拡大を助長する。
6. よって、番組の作り方を再考するべきである。

へぇ~こんな風に考える人がいるんだ…。この考えに従えば、「水戸黄門」も、
「子供たちに、暴力礼賛と権威主義的悪影響を与える」ので、番組のあり方を見
直すべきかもしれない。

「ごくせん」をみて、「秀才=悪」「不良=心はきれい」と思う、また「ごくせ
ん」をみて、勉強しないことを正当化するような子供には、もう語るべき言葉が
ない。

「ごくせん」は、荒唐無稽なワンパターンぶりが売りで、リアリティに欠ける
のが最大の特徴。毎回、色々あって、9時40分ごろから「生徒たちが、倉庫みた
いなところで、大勢の奴らにボコボコにやられる。ヤンクミが登場して、あっと
いう間に敵をやっつける」のだ。(俺も9時40分から観るようにしている)

あれを見て、現実との区別がつかなくなるほど、頭が混乱しているガキ、じゃな
くてお子様は、希少性が極めて高い存在だ。責任を訴えられても、番組側は途方
にくれるに違いない。

そもそも、この「ごくせん批判」自体が、「秀才V.S.不良」の単純な二元論に
はまり込んでいる。不良っぽいけど、頭はいい…とか、がり勉だけど成績は悪い
とか、色々バリエーションはあるに違いない。「進学校生徒の犯罪発生率などのデー
タによれば、実際には勉強をしている子の方が、不良よりはるかに安全」等、荒っぽく
断言してしまえるのは、どうしてか。

テレビドラマは、難しい事いわず、気楽に観るのが一番と俺は思うのだが。
(長澤まさみの、顔面筋肉を酷使する感情表現のほうが、俺には気になる。
一体あれは、「あり」なのか「なし」なのか?)