北鎌倉散策中に考えた事
桜も今週で見納め。段蔓から鶴岡八幡宮周辺は、桜は素晴らしいのだが、観光客で混雑するので、俺達は、北鎌倉へと。
北鎌倉のとある坂をテクテク登り、かつ細い階段をよっこらしょ、息が切れたところで、もう一つ坂を越すと到着するのが、我々がお気に入りのお店。元々ギャラリーなのだとは思うが、湯呑やアクセサリー等の作品が、壁の周囲に展示されている。
残りのスペースには、ベランダも含め、バラバラの形の、椅子と机がおかれ、軽食と喫茶ができるようになっている。 ベランダの先には、竹林が風にそよぎ、その向こうには、桜が咲き乱れている山を、遠くに臨むことができる。
本日は、突き抜けるような青空も美しく、ベランダから入ってくる風は、誠に涼やか、何ともいえぬ良い気持ちだ。
濃い目のコーヒーに、お酒につけたプルーン、濃厚なチーズケーキをいただく。おいしい。最高だったのは、コーヒー酒をかけたバニラアイスクリーム。アイスクリームには、コーヒー豆がふりかけてあり、ガリッと噛むと苦みばしった香りがアイスクリーム&お酒とあいまって、何とも言えぬ芳醇な味である。
息子は野球に、娘は友達の家にでかけており、マーメイドと二人で、贅沢な昼下がりを満喫した。
店の中は、俺達同様、色々な年代のカップルで、満員~といっても10人分くらいしか、テーブルは用意されていないので、スペース的にはゆったりしており、灰色にブチの大きなネコが、店内を我が物顔に歩き回っている~どのテーブルも、ほんわか明るいムードに満ちているのであった。
この店は、別れ話や、慰謝料の交渉など、ジメジメした話には、全く不向きだし、原価計算、資本政策などお堅い作業にも、むかない。色々な陰翳を醸し出すには、明るく、オープンすぎる環境なのだった。
静かな幸福感が溢れる店内に、40歳位の女性が独り、ベランダの席で食事をとっていた。中肉中背で、髪が長く、いたって普通の女性であり、通常であれば、記憶にすら残らなかったと思う。
ベランダ越しに、遠くの景色をみていたとき、偶然彼女と目があってしまった。 ハットするほど鋭く、険のある目付。俺のほうをチラッとみた後、視線をはずして、遠くの景色に視線を移した。ただ、その目付きは、鋭いままだ。
この店には駐車場も無く、近くには普通の住宅しかない。であるから、客は、この店に来る事を唯一の目的として、長い坂と階段を登ってきている。偶然、良さそうなので入ってみる…ということは出来そうもない店なのだ。
あの坂を越え、この店を訪れ、長い時間を過ごす…一人で。 帰り道に、円覚寺を散策しながら、マーメイドと、「一人で、あの店に行く人って、どんな気持ちなのかなあ」という話になった。
結論としては、「自由な人」。 帰るべき場所があり、そこに誰かが待っている場合、決して一人で、日曜の午後3時に、あの店に行こうとは思わない…ということになった。
「自由」であること…。 それは孤独であることも意味するかもしれない。何物にも制約されない~何の組織にも、全く帰属しないか、帰属したとしても、都会のオフィスのように、非常に薄いつながりだったりする場合なのか。
でも、それは、逆に言えば、存在しないこと、存在していることに気付いてもらえないことにも、近いのではないか? 学生の時は、自らを制約するものを、全て忌み嫌い、「自由」であることを、最重要視していた気がする。
そんな「自由」、「孤独」には、もう耐えられそうもない自分に気付く。40歳を過ぎ、自らが存在し得るのは、自分と深く繋がった他者或いは組織の存在故であることを、潜在意識の中で、深く感じていることに、唐突に気付いた。
そういった制約条件、しがらみ、云々は、煩わしくも感じる事も多々あるが、とてもそれらをいとおしく思えるのも事実だ。随分、歳をとったということか?
円覚寺のお庭で、抹茶をいただく。何組かの家族連れが、笑顔で、桜を見物している。
この狭い庭は、四方を山で囲まれた小宇宙だ。平面的スペースは、僅かなのに、立体的スペースは無限だ。
マーメイドが言う。「私が、いなければ、貴方がここに居ても、存在しないのと同じよ」
やけに、自信たっぷりなのは、癪に障るが、全く仰るとおりなのかもしれない。


コメント
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投稿者: ma752zda | 2008年04月21日 22:06