新学習指導要領案
1998年に「生きる力」の育成を目指し、打ち出された「現行要領」は、所謂「ゆとり教育」を謳ったものであった。
今回の「学習指導要領案」では、国語、理科などの主要教科の授業時間数を平均で一割増やす、学習内容も上積みし、この「ゆとり教育」からの脱却を鮮明にしている。
この変化が何を意味し、どういう評価をすべきなのか…については、まず98年改定指導要領の内容について理解しなくてはいけないだろう。現行要領では、教育内容の厳選と総合的な学習時間の新設をその特徴としている。背景には、知識偏重の詰め込み型教育への批判がある。
知識偏重詰め込み型教育が、受験戦争を激化させ、子供のストレス増加を招き、いじめや不登校増加に繋がるという尤もらしいロジックが根底にはある。
この批判に対応する形で、教育内容厳選の名の下に、内容を三割削減し、「思考力、判断力、表現力の育成」を重視する、総合的な学習時間を新設した。
結果として招いた状況は、公立学校の凋落と、私立の台頭、公立学校のカバーできないエリアを補完する塾・予備校の重要性増加である。既に、必要不可欠と言える位の重要性を持つに至っている。
この度の、新要領案では、批判のシンボルであった「三割削減」した内容を、悉く復活させ、重要内容を複数学年で繰り返すスパイラル学習復活など、1998年改定以前への先祖がえりとも言える施策が並んでいる。とはいいつつ、「知識・技能の習得」と「思考力・判断力・表現力の育成」のバランスを重視するという、98年改定の精神も残す配慮が施されている。
印象としては、ゆとり教育に批判的な世論への配慮をみせつつ、ゆとり教育の尻尾は、まだつけているという中途半端な印象をうける。
はっきりさせなくてはならないことは、知識偏重詰め込み型教育が、本当に諸問題の根本原因なのか?ということである。本来、初等教育のレベルで、知識詰め込み型の教育=暗記と反復以外の方法論があるというのだろうか?暗記と反復をさせると、受験地獄、不登校、イジメなどの諸問題を引き起こすという、何か明確な因果関係があるのか?
また、「思考力・判断力・表現力の育成」というのは、知識詰め込み型の教育=暗記と反復と相反するものなのか? 知識詰め込み型の教育=暗記と反復は、思考力・判断力・表現力の育成に貢献しないのか?
このような根本的な部分の議論は、行われず、帳尻を合わせたような印象を持たざるをえない。
「思考力・判断力・表現力の育成」は、重要だと思う。
グラミー賞の受賞者スピーチと、日本アカデミー賞の受賞者スピーチを見て、感じる事は、どうしようもない表現力のお粗末さだ。また、CNNなどで、一般市民のインタビューなどをみても、「私は、ヒラリーのXXの政策を支持するので、彼女に投票する」という風に、論旨明快な回答をするようにみえる。これらの差異は、「思考力・判断力・表現力の育成」が充分ではないことのわかり易い例だ。
このような能力を、日本の公立初等・中等教育で獲得できない、根本的な理由は、知識偏重詰め込み教育ではなく、公立初等・中等教育の場にあるのではないか。
子ども達は、自分達を取り巻く社会について、様々な知識を得て、その知識に基づいて、ロジカルに意見を構築し、判断できる能力を育成されるべきなのである。社会を構成する要素、政治、経済、文化、宗教などについて、自由な議論を行うスペース、自由な議論を誘発し色々な回答があることを、生徒に教える技量のある教師…など、公立小中学校には、そもそも存在しないのではないか?
うちの子供は、小中を公立で過ごした。色々な教師の皆さんとのコミュニケーションを通じて、「学校」というのは、世の中の動きに、影響をされることが少ない、凄く異質な世界である…という印象を持つに至った。以下は、俺の遭遇した一例。
現在の高校受験時の合否は、3科目ないしは5科目の試験結果+内申書で決定される。つまり、総合得点だが、中学校では、定期考査でも、科目別の度数分布表だけが、公開されていて、総合得点の度数分布表はでない。しかも科目によって120点満点もあれば、60点満点もありといった具合で、総合的に、子供がどのレベルにあるのかを理解することが、できないようにしてある。
要は、「順位をつけるのは差別だ」みたいな思想に基づくものである。しかし、実際には、この相対的評価が無いと、受験校決定に支障がある。よって、殆んどの子供は、塾・予備校で模試を受けて、自分の実力を評価するし、受験校決定も塾の教師に相談をするというのが現実だ。
こういう現状から、担当教師に、総合点の度数分布表を出して欲しい旨お願いをしたところ、回答は、「国語と理科と数学と英語と社会の点数を足した合計は、蜜柑と林檎と梨の数を足すのと同様意味がないので、行わない」…との事だった。議論の余地がないという感じで、バッサリ斬られて終り。
現在の受験制度も、文科省の行っているセンター試験も、彼に言わせれば、蜜柑と林檎と梨の数を足して評価していることになって意味がないのだ。また、初等教育において各科目は、総合的な知的フレイムワークを広げる為に行うものであり、それらは独立して評価すべきものではない…という、初等教育論の基礎すら否定していることになる。
こういう考え方が、議論の対象になることもなく、まかり通り、一方、高校受験という、初等・中等教育から、高等教育へのステップには、余り強い関心を示さない、もしくは積極的にタッチせず、あたかも塾産業に委託したかのような状態だ。
フィロソフィーのはっきりしない指導要領と、現実と大きく乖離した学校現場。日本の、初等・中等教育の今後については、非常に懐疑的にならざるをえない。

