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2008年02月29日

最近のブログが、いつもに増して面白くないということについて

マーメイドから、最近のブログについて厳しい批判が浴びせられている。

・ 本当に、書きたいことを書いているのか?情熱が感じられない。
・ グーグルでの表示順位をあげようという、スケベ心が丸見えだ。
・ くだらない例え話、言葉遊びはいい加減にしたらどうか?
・ それにしても、過剰に後ろ向きで、おセンチ。いい歳して、気持ち悪いぞ
・ ネタ切れになったら、私をネタにするのは、許せない
・ 本→Youtube→CD→鎌倉散策→想い出話→本の繰り返しで、芸がなさ過ぎる

まあ、こんな具合で、怒りの収まる気配がない。とは言っても、全くその通りなので、言い返すこともできず、「そこまで言うなら、お前が書け」という言葉もぐっと飲み込み、今日も、こうやって机に向かう。背中に哀愁が漂う。

毎日、仕事に忙殺されている。空いている時間は少ない。残り時間は、濫読と音楽を聴いて過ごす。仕事関連の内容は、書かないことにしている。仕事関連では、かなり笑える話、泣ける話、感心する話など、山ほどあるのだ。まさに、「事件は会議室で起こる」のだが、ブログにするには、差し支えがありすぎる…。そうすると、ブログの内容が、「本→Youtube→CD→鎌倉散策→想い出話→本」という循環をとるのも致し方ないことか。

というわけで、今日は、Youtubeの順番だな(開き直っている)

先日、~心も体も、寒さでカッチカッチやないか~寒い音楽動画ランキングを書いたのだが(TMNのSelf-Control が栄えある第一位に)、本日は、youtube俺が癒された音楽動画ランキングをお届けしましょう。

第五位 菊池桃子 「渋谷で5時」
もう、菊池桃子が可愛い。それに尽きる。

第四位 斉藤由貴 「かなしいことり」
斉藤由貴の声には癒される。でも、歌詞は、「ごめんね、これまで黙ってて、ホントは彼がいたことを♪」とかなりエグイ。その上、「ふたりは、かなしいことりね」等といってしまう。女はしたたかだ。

第三位 中山美穂 「You're My Only Shinin' Star」
中山美穂は、そんなに歌が上手いとも思えないし、余り好きな歌手ではない。でも、この曲と、「世界中の誰よりきっと」、「幸せになるために」を聴くと、いつも不覚にも泣いてしまう。

第二位 原田知世 「早春物語」
会いたくて、会いたくて、会いたくて、会えない人に♪という出だしで、もう目がうるうるする。何てノーブルな声なのだろう。

第一位 薬師丸ひろ子 「Woman~Wの悲劇~より」
仕事をしながら聴いていたのだが、この曲のイントロで、思わずパワポ作成の手が止まった。心が震える。思わず続けて三回聴いたのだが、同じところで泣きそうになった。

この五曲は、昔々好きだった曲だが、ここ20年近く、存在すら忘れていた。

Youtubeは、著作権の問題はあるのだろうが、やはり凄い。もし、このサービスがなければ、俺は、二度とこの五曲を思い出すこともなければ、聴くこともなかったかもしれない。

映像の力。過ぎ去った日々の記憶が、やけにビビッドによみがえる。

学生時代の思い出と音楽って、いつもセットだ。~してたときは、この曲がかかっていた…とか、この曲聴くと、~を思い出すという感じ。 また、いつも何かしらのイベント~取るに足らないことばかりなのだが~が起こり、喜んだり、悩んだり、悲しくなったり、立ち止まったり…していたような気がする。

就職以降、特にこの10年は、比較にならないほど密度の高い生活をしている。昔だったら、取り乱して、大騒ぎのことでも、今では、淡々と対処できる。タフになったということなのだろうが、半面、記憶が歌を失い、事実としての記憶しか残らなくなった…ともいえる。そういう自分の中での変化は、そもそも生きていく為に、心に纏った鎧みたいなものだった筈だが、今となっては、一体化してしまった…?

これが、「個性」「成熟」ということなのかは、よくわからない。(明日は、CDの番だ)

2008年02月24日

ドーダ学

俺は、2000年から、ウェブ業界で働き始めた。

発展途上の業界だけあって、色々な人間が棲息する。かなり不可思議で、俺の首が45度に曲がったハテナの状態で、元に戻らないのは、「XXを知っている」という表現を多用する人々である。

「XX社の△部長は、よく知っています」 「はい」
「△社の〇〇取締役は、知っています」 「ええ」
「□社のXX社長は、知っています」 「・・・」

ウェブ業界の著名人を「知っている」と言いたいだけで、中味はなかったりする。何のこっちゃ。

先日、「ドーダの近代史」(朝日新聞社 鹿島茂著)を読んで、つまりこれは、俺に、「お手本ドーダ」をかましてきた訳ね…と得心がいったところだ。

鹿島氏(共立女子大教授)が、東海林さだお氏の提唱する、「ドーダ学」にそって、日本の近代史を、ぶった斬っている。

「ドーダ学」は、人間の行うコミュニケーションの殆んどは、「ドーダ、おれ(わたし)は、凄いだろう。ドーダ参ったか?」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、社会のあらゆる事象を分析していこうとするアプローチである。

鹿島教授は、「ドーダ」とは、「自己愛に源を発する全ての表現行為」と定義している。この表現形式には、色々なパターンがある。

ストレートなドーダは「陽ドーダ」、ひねくれたものは「陰ドーダ」。外向きのドーダは、「外ドーダ」、自らの内に求めるのを「内ドーダ」。

先ほどの、「俺は、ウェブ業界での著名人を知っている」というのは、「ウェブ業界の有名人は偉い、偉い有名人を知っている俺も偉い、ドーダ参ったか、もっと俺のことを崇め奉れ」という自己愛の表現で、「外ドーダ(お手本ドーダ)でかつ陽ドーダ」ということになる。

「最近、忙しくて、寝てないんだよな」というのは、「寝ないで働いている俺って、凄くない?ドーダ参ったか?」という表現であり、これは「内ドーダの陰ドーダ」(忙し自慢ドーダ)。パンツみせているヒップホップなニイチャンは、「トレンドにのっている俺って、とってもイケテル、ド~ダ」ということかしら。

世の中、よくよく見れば、「ドーダ」で溢れかえっている。

著者のいうには、自己愛とドーダの現れ方は、時代によって大きく異なる。ある時代では、アカラサマに、ある時代では、非常に微弱に。

日本の歴史で、このドーダが最も強烈なのが、幕末から明治にかけての日本の近代史であり、そのドーダエネルギーの化身ともいえるのが、西郷隆盛であり、第二次大戦の敗退を生み出す日本人の精神性を支配するに至った…というのが粗筋。(この本は、ハードカバーで400ページ近くある大作なので、詳細は省略)

では、現代日本はどうであろうか?KYなんていうのは、その場の雰囲気関係なく、無邪気に「陽ドーダ」を表現してしまった事象だろう。先ほどのお手本ドーダというのは、「外ドーダ、陽ドーダ」で非常に直球。ドーダの観点からすると、非常にわかり易い。

ただ、時代の基調としては、強烈な「内ドーダかつ陰ドーダ」の時代であるように思う。バブル期の「こんなに金もって、こんなにブランド買い漁った俺って最高。ド~ダ」みたいな、感じは、影を潜めている。(バブル期の直裁さは、戦国時代の武将が、豪華絢爛な鎧甲冑を纏い、戦場で我こそは~と名乗りをあげるレベルに近く、牧歌的ですらある)

現在、自己愛は、暑苦しいものとされ、嫌われ、否定される傾向が強いように思える。

「ドーダの日本史」で引用されている17世紀フランスのラ・ロシュフーコの自己愛についての箴言:

自己愛は天下一の遣リ手をも凌ぐ遣り手である
自己愛の国で人が発見したことがどれほどあるにとしても、まだそこには未知の土地がたくさん残っている。(「ラ・ロシュフーコー箴言集」二宮フサ訳、岩波文庫)

どんな人間でも自己愛は存在し、どのよう表現にも必ず表れざるを得ない。

現在日本に支配的な、「普遍的な自己愛の否定」という矛盾に満ちた姿勢は、自己愛の表現をより複雑なものに変えていかざるを得ない。
捻じ曲がった「陰ドーダ、内ドーダ」を理解するのは、非常に難しい。個人間のコミュニケーションがどんどん困難になり、相互理解を非常にエネルギーを要する苦行にしているのではないか。フェイスTOフェイスのコミュニケーションを回避し、SNSなどで展開される、バーチャルでライトな感覚の擬似コミュニケーションに逃避していくメンタリティの背景には、複雑な「陰ドーダ、内ドーダ」があるというのは、穿ち過ぎか?

ただ、友情とか愛情とかを、育みにくい時代なんだろうなあ…というのは、何となく中っているような。

2008年02月23日

不思議に感じる事

俺は、最近色々なことを不思議に感じる事が多い。

激しい好悪の表現。何故激しく泣いたり怒ったりすることができるのか?色々な思い込み~大体の場合明確な根拠がない。強い意見や主張をもち、それを正しいと確信すること。

これらに共通するのは、感情量が大量で、かつダムが決壊するかのごとく、他者に対して表現されるということである。

俺が、とても不思議に思うのは、その感情量の増加と表現に至るメカニズムである…って、そんなに大仰な話ではなくて、最近の日本人は、簡単に、鮮明に感情を吐露するのは何故?ということ。

ダムが決壊するのが、早!!って感じなのだ。そもそも、感情をせき止めるダムをもっているのか?

通勤時、オフィス、家の周辺で、明け方の街、桜木町で、こういったシーンに遭遇することが時々ある(とはいっても、以前よりかなり頻度は上がっている)。

俺は、喋っていることの、恐らく数千倍は色々な事を考えている~真剣なことから邪までウッフンなことまで。そのうえで、悩んだ挙句、verbal communicationに打って出る…という感じなのだが、「簡単に感情・思い込みを吐露する人々」については、どうなのだろうか?

結論から言うと、未だ仮説の段階だが、自らの思いを開陳することは、良い事であるという思想(思い込み)があるように思える。「自分の気持ちを大切にしたい」「自分らしくありたい」「ナオちゃんが、どう思っても、自分の気持ちを大切にしたいの。だって、自分に正直でありたいし、後悔したくないから。ウフッ」っていうことでは、ないか。

つまり、この溢れる思いを胸に秘す、理性のダム自体が存在しないのではないか?喋ったことが、まんまその人そのものであり、深みも何にも無い。我が国固有の奥ゆかしさである、忍ぶれど色にでにけり…みたいな微妙な感じなど期待するべくもない。

言うまでも無く、周囲の人間は、多くの場合、いい迷惑なのだが、それでも構いはしない。だって、ありのままの自分を表現したいから…。というような話なのではないだろうか?

そうすると、これもある意味、「自分探し」の一貫というか、似たようなサイコロジーが働いているような気がする。

前のエントリーで書いたように、昨今の「自分探し」の根っこが、ポジティブシンキングという名のもとに、行われる安易な自己肯定と現実逃避とすると、非常にわかり易い。自分の思いが、正しいか、他者に受容されるものかどうか…等は、余り重要ではなく、熟慮すべき問題でもない。「くだらない社会や常識」に縛られることなく、express myself, just the way I am!!ってことが、一番さ…ということではないか。

個性重視~ゆとり教育は、その真の狙いとは別に、とんでもなく、自分勝手な奴らを産み出している…という気がしてきた。

2008年02月22日

自分探し

俺の中で、胡散臭いと感じるものがある。(個人的見解ですので、異論はありますよね、そりゃそうだ)

自己啓発セミナー、スピリチュアルカウンセリング、ロハス、ボランティア活動、NPO・NGO活動、環境保護、ドルフィンスイミング、海外放浪…など、共通のいかがわしさを感じてきた。

1990年代以降、「自分」が対象だったり、別の個体であるかのような表現が一般的に多く使われ、目に付くようになって、俺はかなり薄ら寒いものを感じていた。
自分探し、自分にご褒美、自分的には、自分らしく、ありのままの自分を、自分の気持ちに嘘をつかない、自分磨き…など。

今日、「自分探しが止まらない」(速水健朗著、ソフトバンク新書)という本を読んで、これらが全て数珠繋ぎであることがわかって、少しすっきりした。

因みに、著者によると、題名は、「ロマンティックが止まらない」「愛が止まらない」「止まらないHa~Ha」から、取ったらしい。こちらには、余りすっきりしない、正直言って。

1970年代中盤以降生まれた世代が学生だった頃、教育の現場では、個性を活かした教育というのが、叫ばれていた。この頃から現行ゆとり教育まで、(その意図にあっているかどうか別として)個性尊重の意味が、従来のものとは変質していった。

従来、個性とは、社会の中で、多くの人間と知り合い切磋琢磨しながら培ってくるものという理解だったと思うのだが、このころから、予め持って生まれてくるものであり、自分の内面へと奥深く分け入って見つけるものという考えに変わっていったらしい。

この考えで行くと、自分のやりたいこと、本質が見えてこない、また自分が輝いていると感じられない…ならば、それは、まだ「本当の自分」を見つけていないからだ…という結論になる。

元々自分のなかにあるものを、発見する為には、何らかの変化、刺激が必要という考えに至り、自分らしさを実感できない「つまらない会社」を辞めて、スピリチュアルカウンセリング、ロハス、ボランティア活動、NPO・NGO活動、環境保護、ドルフィンスイミング、海外放浪~などの諸活動を始める。これらが外向きな自分探しであるとすれば、フリーターになって職を転々とするのは、内向きな自分探しと表現すればいいのか?

そういった経緯を、多少重複はありながら、著者は、丁寧に検証していく。

また、この自分探しの根幹は、ニューソート思想の「ポジティブシンキング」、ニューエイジ思想の、「終末論:古い時代は終り新しい時代が始まる」「物質より精神性」などの強い影響下にあることを解き明かしていく。梅田望夫氏の「ウェブ進化論」は、この終末論のフォーマットをなぞっていることが、若者から圧倒的支持を受けた一因であるという指摘は鋭い。

フリーターを食い物にするビジネスが存在していることも、論じている。つまり、彼らを安く、かつ取替えがいつでも可能な労働力として搾取するビジネスの存在である。これらビジネス側にとっては、不毛な自分探しを行う若者の増加は、大歓迎なのだ。かくして、「自分探しは止まらない」

この本を読んで発見したことが3つある。

従来俺は、世代間の違いより、個人差異のほうが大きいと思ってきたが、バブル世代のように何を消費するかで、個性を表現しようとする世代と、それ以降の世代には、大きな隔絶があることを認めざるを得ないこと。(そうでないと、フリーター増加を始めとする様々な社会現象を説明する事ができない)

もう一つは、「個性」の捉え方が、この1970年代中盤以降に生まれた世代は、かなり特殊で、それは、少なからず教育制度に影響されたということ。

「個性」の定義については、考え方がかなり誤っていると感じる。人間は、「個性」を生まれつき持っているわけではなく、多くの人間との出会い、競争、社会での色々な経験を通して、培っていくものだと思う。生まれたときには、空っぽである。人間は、学習する動物なのだ。

空っぽの自分を幾ら見つめても、何も生まれはしない。インドで放浪しようが、ボランティアや海外貧困問題に関わっても(それはそれで意義深いとは思うが)単なる現実逃避だ。何かの契機にはなるであろうが、自分を見つける事とは、無関係なのだ。

「自分」は探すものではなく、現実と真正面から向き合い、地道な努力の積み重ねのもと、創り上げていくものなのではないか?と思うのである。

3つ目は、とはいえ、伝統的宗教が力を失い、科学万能信仰も、働けば将来豊かな生活が保証されるという神話も、崩れ去った現代で、自己責任で個性を磨けと言われても、中々難しいよなあ…とも思う。ただ、このまま行くと、この世代以降は、強靭な精神力を持ったごく僅かな勝者と、圧倒的多数の自分探しの流浪者に、二分される事態になるのではないか? なんて、薄ら寒い未来だ。

全然違う話だが、同じような胡散臭さを、団塊世代が定年後に、蕎麦を打ったり、ロクロを回したり、無農薬野菜を作ったりしている姿にも、感じる。 企業戦士としてガムシャラに働いたので、今後は、「自分らしく、人間らしく」生きて行こう…というような話なのだろうか? 勿論、本人の勝手なのだが、非常に、ステレオタイプで、スノッブな感じがするけどなあって、俺の立ち位置が不明だ。

2008年02月17日

新学習指導要領案

1998年に「生きる力」の育成を目指し、打ち出された「現行要領」は、所謂「ゆとり教育」を謳ったものであった。

今回の「学習指導要領案」では、国語、理科などの主要教科の授業時間数を平均で一割増やす、学習内容も上積みし、この「ゆとり教育」からの脱却を鮮明にしている。

この変化が何を意味し、どういう評価をすべきなのか…については、まず98年改定指導要領の内容について理解しなくてはいけないだろう。現行要領では、教育内容の厳選と総合的な学習時間の新設をその特徴としている。背景には、知識偏重の詰め込み型教育への批判がある。

知識偏重詰め込み型教育が、受験戦争を激化させ、子供のストレス増加を招き、いじめや不登校増加に繋がるという尤もらしいロジックが根底にはある。

この批判に対応する形で、教育内容厳選の名の下に、内容を三割削減し、「思考力、判断力、表現力の育成」を重視する、総合的な学習時間を新設した。

結果として招いた状況は、公立学校の凋落と、私立の台頭、公立学校のカバーできないエリアを補完する塾・予備校の重要性増加である。既に、必要不可欠と言える位の重要性を持つに至っている。

この度の、新要領案では、批判のシンボルであった「三割削減」した内容を、悉く復活させ、重要内容を複数学年で繰り返すスパイラル学習復活など、1998年改定以前への先祖がえりとも言える施策が並んでいる。とはいいつつ、「知識・技能の習得」と「思考力・判断力・表現力の育成」のバランスを重視するという、98年改定の精神も残す配慮が施されている。

印象としては、ゆとり教育に批判的な世論への配慮をみせつつ、ゆとり教育の尻尾は、まだつけているという中途半端な印象をうける。

はっきりさせなくてはならないことは、知識偏重詰め込み型教育が、本当に諸問題の根本原因なのか?ということである。本来、初等教育のレベルで、知識詰め込み型の教育=暗記と反復以外の方法論があるというのだろうか?暗記と反復をさせると、受験地獄、不登校、イジメなどの諸問題を引き起こすという、何か明確な因果関係があるのか? 

また、「思考力・判断力・表現力の育成」というのは、知識詰め込み型の教育=暗記と反復と相反するものなのか? 知識詰め込み型の教育=暗記と反復は、思考力・判断力・表現力の育成に貢献しないのか?

このような根本的な部分の議論は、行われず、帳尻を合わせたような印象を持たざるをえない。

「思考力・判断力・表現力の育成」は、重要だと思う。

グラミー賞の受賞者スピーチと、日本アカデミー賞の受賞者スピーチを見て、感じる事は、どうしようもない表現力のお粗末さだ。また、CNNなどで、一般市民のインタビューなどをみても、「私は、ヒラリーのXXの政策を支持するので、彼女に投票する」という風に、論旨明快な回答をするようにみえる。これらの差異は、「思考力・判断力・表現力の育成」が充分ではないことのわかり易い例だ。

このような能力を、日本の公立初等・中等教育で獲得できない、根本的な理由は、知識偏重詰め込み教育ではなく、公立初等・中等教育の場にあるのではないか。

子ども達は、自分達を取り巻く社会について、様々な知識を得て、その知識に基づいて、ロジカルに意見を構築し、判断できる能力を育成されるべきなのである。社会を構成する要素、政治、経済、文化、宗教などについて、自由な議論を行うスペース、自由な議論を誘発し色々な回答があることを、生徒に教える技量のある教師…など、公立小中学校には、そもそも存在しないのではないか? 

うちの子供は、小中を公立で過ごした。色々な教師の皆さんとのコミュニケーションを通じて、「学校」というのは、世の中の動きに、影響をされることが少ない、凄く異質な世界である…という印象を持つに至った。以下は、俺の遭遇した一例。

現在の高校受験時の合否は、3科目ないしは5科目の試験結果+内申書で決定される。つまり、総合得点だが、中学校では、定期考査でも、科目別の度数分布表だけが、公開されていて、総合得点の度数分布表はでない。しかも科目によって120点満点もあれば、60点満点もありといった具合で、総合的に、子供がどのレベルにあるのかを理解することが、できないようにしてある。

要は、「順位をつけるのは差別だ」みたいな思想に基づくものである。しかし、実際には、この相対的評価が無いと、受験校決定に支障がある。よって、殆んどの子供は、塾・予備校で模試を受けて、自分の実力を評価するし、受験校決定も塾の教師に相談をするというのが現実だ。

こういう現状から、担当教師に、総合点の度数分布表を出して欲しい旨お願いをしたところ、回答は、「国語と理科と数学と英語と社会の点数を足した合計は、蜜柑と林檎と梨の数を足すのと同様意味がないので、行わない」…との事だった。議論の余地がないという感じで、バッサリ斬られて終り。

現在の受験制度も、文科省の行っているセンター試験も、彼に言わせれば、蜜柑と林檎と梨の数を足して評価していることになって意味がないのだ。また、初等教育において各科目は、総合的な知的フレイムワークを広げる為に行うものであり、それらは独立して評価すべきものではない…という、初等教育論の基礎すら否定していることになる。

こういう考え方が、議論の対象になることもなく、まかり通り、一方、高校受験という、初等・中等教育から、高等教育へのステップには、余り強い関心を示さない、もしくは積極的にタッチせず、あたかも塾産業に委託したかのような状態だ。

フィロソフィーのはっきりしない指導要領と、現実と大きく乖離した学校現場。日本の、初等・中等教育の今後については、非常に懐疑的にならざるをえない。

2008年02月16日

カモメになったペンギン

先日、「カモメになったペンギン」という本を読んだ。

著者は、ジョン・P・コッター。ハーバードビジネススクール史上最年少で教授になった、「リーダーシップ論」の権威。といっても、難しい学術書ではなくて、童話。

定住生活をしていたペンギン達が、定住場所である氷山が溶け始める危機に瀕した。さて、この危機をペンギン達はどう乗り切っていくのか…という物語。

詳細は、省くとして、この本には、あらゆる企業が、危機に瀕したとき、どのように変革を成し遂げる方法論が寓話の形式を借りて述べられている。

そのプロセスは、次の八つに分かれる。
1.危機意識を高める 2.変革推進チームをつくる 3.変革のビジョンと戦略をたてる 4.変革のビジョンを周知徹底する 5.行動しやすい環境を整える 6.短期的な成果を生む 7.更に変革を進める 8.新しい文化を築く

このプロセスの中で、最も強調されているのは、2の変革推進チームをつくることだ。実は、この本では明示的に書いていないが、2ができたときに、3~8の成否はある程度みえてくる。何故なら、3~8を実施し、推進するのが、このチームだからだ。

変革が成功するかどうかは、実は、半分以上は運次第だ。(と、断言するとコッター教授に怒られそうだが)たとえ、素晴らしいチームを作ろうが、彼らが、完璧なビジョンと戦略を構築し、それ周知徹底し、実践できる良い環境を整えたところで、短期的な成果を生むことができるかどうかは、誰もわからないのだ。

「危機」と言えるようなステイタスというのは、これだけのプロセスをもって、組織全体を問題に向かわせないと解決できない厳しい状況を意味する。だから、そうは簡単に結果をだすことはできない。

全ては結果である。短期的成功を懐疑的な人間の前で示さない事には、<7.更に変革を進める 8.新しい文化を築く>など出来はしないのだ。

天草四郎は、水上を歩いて渡ったり、空中から鳩を取り出すという奇跡を演じ、メシアとしての絶対的信頼を勝ち得た。彼の場合、勿論奇術のネタがあったわけだろうが、実経営にそんなものはないので、運の強さが必要。言い換えれば、偶然性は、変革プロセスの成否に、8つのプロセスの遵守以上に大きなファクターであると思うのである。いい占い師を紹介しろ…という感じだ。チャーチルもヒトラーもお抱えの占い師を持っていたことを観ても、案外そんなもんだ…という感じがする。人間ができるのは、成功確率を最大限に高める方法論を実践すること、そして後は祈ること位だ。

そういうわけで、俺はいつも、この「経営学」というものに、スピリッチュアルカウンセリングっぽい感じを持ってしまうのだった。

さて、問題の変革チームだが、この物語では、好奇心と観察力にあふれた理知的な男性、行動力と実務能力のある女性、人事の才と調整能力にたけたリーダー、コミュニケーションと癒しのタレントをもつ若者、論理的で聡明だが他者に対する興味の薄い専門家の5名からなる。
そして、彼らに共通するのは、危機感と組織に対するコミットメントだ。

抜群の調整能力をもったカリスマ的リーダーに率いられた、このタレント集団は、問題を上手く解決し、めでたし、めでたしのハッピーエンドになる。

しかし、実際には、カリスマは、訳のわからないことを言い、自分勝手に行う(綺麗に言えば、信念をどんな時でも貫くっていうか)からこそ、カリスマなのだ。調整能力に優れた「カリスマ」というのは、ロジカルな長嶋茂雄みたいなもので、そんな人はいないのだ。

また、唯、調整能力が高いだけでは、こんな異能集団を統率するのは不可能だ。彼らが、ひれ伏すくらいの強烈な何かがないと~やっぱ教祖と弟子みたいな関係かしら。

経営学が、本当に社会科学といえるのか疑わしいと思うのは、仮説と検証が厳密な意味で行われておらず、要は成功事例と失敗事例を、ケーススタディと称して後付けするという、ある種の欺瞞性に満ちているからだ。そりゃ、結果知ってりゃあ、何とでも尤もらしい理由はつけられるだろう…と噛み付きたくなる。どんな組織においても、また同じ組織においても、時期によって、完全に同じという環境はない。常に現実は動いている。であるから、どんな尤もらしい法則性を過去の事例から抽出したとしても、再現性を検証することはできないのだ。経営学者にとっては、都合のいい事に。

批判めいたことばかり書いたが、俺がこの本とこの本で説明されている理論を意味がないと言っているかというと、そんなことはない。ここで書かれている理論は、成功確率を高めるための、フレイムワークとしては、正しいし、問題解決のために、状況に応じてアレンジして適用することは効果的だ。

ただ、正しい適用方法は、ここで書かれているプロセスを、チームではなく、独裁者が、熱狂と恐怖を武器に行う事まで、その範囲に含まれてしまうというのが、現実だということだ。織田信長、アレクサンダー大王、カエサル、始皇帝、チンギスハン、そしてヒトラー…。彼らが、チームを組んで合議制で、変革を成し遂げたのだろうか? 逆に、チームを組んで、変革を成し遂げ、危機を脱した例って、この寓話にでてくるペンギン以外に、ご存知でしょうか?

流石に、民主主義を守る保安官であるアメリカ合衆国の経営学者が書いた本だけあって、民主主義的チームが、危機を救うというシナリオになっているが、極度の危機的状態に対応するためには、最も不適な体制であることは、歴史が証明しているのではないか。 勿論独裁的リーダーに率いられた集団が、継続した成功を収めたケースも、寡聞にして、存じ上げないのではあるが…。

この本が童話という形式を取ったのは、確かに、この変革プロセスをわかりやすく伝える為ではあるが寓話であるからこそ許される、一種のファンタジーに過ぎず、寓話でなければ、そのリアリティの欠如が露呈してしまうからかもしれない。

2008年02月12日

中国製ギョーザとは、全く無関係のギョーザの話し

中国製ギョーザ中毒事件の記事を読んだとき、不思議な感覚が体を襲った。

俺は、割と霊感が強いほうで、叔母の葬式の後、夢に叔母がでてきたり、その手の気配を敏感に感じる。その時も、何かそういう感じがして、あたりを見回してみた。何もいない。ふ~っとため息。そのとき、耳元で、囁く声がする。「私のことは、忘れてしまったの?」「昔は、もっと熱い気持ちをぶつけてくれたじゃない」 

俺は、即座に悟った。ごめんよ、ギョーザさん、長い間君の事を忘れていた…。激しい悔恨の情が押し寄せる。

我が一族は、食物に対する熱意において(のみ)、ただなならぬものをみせる。

最高級の、車海老の踊り、ブリの刺身があったとしよう、データは無いが、恐らく全員、必ず車海老、そしてブリの順番で食べる。これは、脂ののったブリを夢中で食べていると、繊細な車海老の味がわからなくなるからである。

また、応用問題として、車海老、ブリに加えて最高級の雲丹が加わったらどうか? 答えは、車海老、雲丹、ブリの順番なのである。まだ、親戚に一度も尋ねたことはないが、ほぼ100%皆、同じ回答をするという確信がある。因みに、これに、霜降り牛肉など加えても、順序は変わらない。

繊細な味重視、肉より魚重視という、不文律は、一族を束ねる重大な掟だ。

転勤・転職などで、色々な街に住んだ。下関の、あのラーメン屋とあの寿司屋、広島のお好み焼き屋、三重県のあのお好み焼き屋とあのギョーザ屋、新潟の蕎麦屋、鎌倉の鮨屋、イタリアン、ミートパイ…家庭では、どうしても追いつけないプロの技を追求する日々だったと言っても過言ではない。

家庭ではできない理由として、例えば火力、鍋の大きさなどもある。しかし、そういうファシリティ要素だけ、揃えても駄目。+αがなければ。スダチ、オリーブオイル、鰹節、塩、山葵、ジャム、醤油その他シーズニングを名人芸的に使い、「何、この味、マジ、チョーヤベェ」とうちの息子が言うくらいの驚きが求められるのだ。

下関の行きつけのラーメン屋でいえば、この複雑系スープをどうやって作るのかが、皆目検討がつかない。(危ないものは、入っていないのか一寸心配)鎌倉の鮨屋で言えば、鮨屋でヒラメにバジルソースはないだろう…でもウマ~イ。玉葱とニンニクだけなのに、何故こんなに深い味わいなの…教えてピザ。

嘗て、ギョーザは、俺の中で、同様の驚きを追求すべきメニューであった。それなのに、最近では、寿司、うどん、蕎麦、パスタなどに押され、滅多に想起することもない、普通の一品に成り下がってしまった。例えれば、オリンピック強化枠から外れて、一般参加選手になってしまったような感じだ。

余計な事を書いているうちに、ギョーザと俺の愛のドラマを描くスペースがない…というか、もう20分もかかっている。ここでやめちゃおうかな、でも、ここで止めると、何のこっちゃ意味がわからないよな。

幼い頃、父親が船乗りをしていたので、所属している漁業会社のアパートに住んでいた。うちの父親は遠洋航海にでるのだが、沿岸漁業に従事する方達もかなりいて、彼らは朝早く魚をとって、毎日帰宅をするという、サラリーマンに近い暮らしをしている。その当時、給与の一部は、現物支給。とった魚の一部を、船の役職順に、手当てとして分配する。

大体、一家族では、食べきれない位支給されるので、新聞紙に包んで、向こう三軒両隣に配る。色々な御宅に配るのは、我が家で言えば俺の役割だ。(といっても、うちが配るのは、魚ではなくて、魚のすり身の缶なので、子供には非常に重い) 俺は、幼いとき、利発な上に、いつもニコニコ、ご機嫌さんの子供で、「魚屋さんで~す」とか言って各家庭を回ると、美味しいお菓子があるとか、まあご飯を食べていけ…とか色々引き止められて、それはまあ人気者だった。(いかん、また脇道にそれている)

で、我が家にも、ほぼ毎日、沢山色々な魚介類が届けられるのだが、うちのお袋は、横着で、イカだのタコだのは、捨ててしまったりする。ヒラメもマナガツオも、本当に旨い一部以外は捨ててしまう。太刀魚なんぞは、最初から、食い物として認識されていないようであった。

下関という土地柄か、余り頻度は高くないのだが、カニを頂く時がある。こうなると、家族の中での期待ボルテージは、グ~ンと高まる。メニューは、もう聞かなくてもわかっている。カレーとギョーザだ。

カレーについては、カニを単にダシをとる為だけに使うのだが、思いっきりカニをぶち込んで、長い時間煮たカレーの美味いこと美味いこと。

そして、問題のギョーザだが、中味の90%以上がカニなのである。調味料がどうだ、隠し味がどうだ…等の小細工は無用。 取れたてのカニを蒸して、身を取り出して、ギョーザの皮で包んで、後は焼くだけのシンプルなものだが、これが、トビッキリ美味い。(もしかすると、他に色々はいっていたのかもしれないが、カニ以外の記憶が無い。)

成長をした、俺は、理想のギョーザを追い求めて、日本列島、北から南へ旅がらす。しかし、それは、失意と絶望の旅路であった。いつしか、俺は、ギョーザを忘れ、手の届く幸せに、安住するようになっていたのだ。

そして、今、俺の中で、再びギョーザの存在が大きく、クローズアップされつつある。

止まっていた時計が今動き始めた。俺のギョーザを巡る冒険は再開されたのだ。究極のギョーザ、名付けて(今名付けたのだが)"Crab Dynamite"(言っておくが上海蟹ではない)に、匹敵すると思われるギョーザをご存知の方は、ご一報いただきたい。

なお、「旨みが閉じ込められて、肉汁がどっとでますネエ」とか、片栗かなんかで、「パリパリした食感が」な~んてギョーザは、品位に欠けるので、得点はゼロだ。あくまで、「繊細な味重視、肉より魚重視」のノーブルにして、絢爛豪華な味を求めているということに、ご留意あれ。

2008年02月11日

酒屋の若主人の話し(続き)

マーメイドからの指摘事項で、昨日のブログには誤りがあるとのこと。「こうぞ…ではなく、みつまた」「大仏から15分…ではなく、大仏から5分」らしい。「謹んで、お詫びと訂正をする」ことを面倒くさいので拒否したのだが、10KGある砂袋を後頭部に叩きつけられた。 これ以上の打撃技を受けると明日会社にいけないので、ここでお詫びします。一応、謹んで。

「あの二代目なら、あの店は安泰だ」というところで、昨日のエントリーは終わったのだが、それに関連して。

ここからは、俺の独断と偏見であり、異論はあるかもしれない。しかし異論があったとしても、コメント欄に、適切な指摘をしたり、TBをうって、何処が間違っているかなど、詳述するのは、止めて欲しい。頼むから。 俺は、いたって気が弱いので、批判めいたことを言われると、とてつもなく萎縮する。

褒めて伸びる子と叱られて成長する子と2つのパターンがあるとすると、俺は前者の典型だ。ピュア100%の「褒めて伸びる子」なのだ。(物心ついて以来、ここ何十年、人に褒められた事がない。俺が齢45にして、未だに大成できないのは、俺を褒める人間に恵まれないからではないか…と最近うすうす感じている)

さて、独断と偏見だが、酒屋の主人は、相対的に、知的な感じがする。また、この酒屋と同様、料理人、画廊オーナーなども、とても知的な感じを受ける。これは何故なのだろうか?

昨日、歩きながら考えて思ったのだが、取り扱うものが「複雑系化合物」だからではないか?

お酒は、米を加工し色々な薬品と化学変化があり、製造される。

様々なものをミックスし、プラスαの性質変化があり、多くのパラメーターを、微妙な匙加減で統御しなくては、良いアウトプットとならない、デリケートな商材を、常に取り扱う職業の人は、直向にその商材と取り組むことにより、自然と知的になってしまうのでは?

お酒は、非常に多種多様な種類があり、夫々に歴史がある(昨日の「司牡丹酒造」は、405年前に創業。中村勘三郎と同じ位長い)

そういう多くの銘柄について目利きになるためには、製法・歴史・蔵元の特徴・性格など…幅広い知識が必要だ。ただ、知識が深いからと言って酒屋の主人にはなれない。酒のファンと、酒を売るのは、天と地くらい違う。

売るためには、こういう好みの客には、こういう酒というように、瞬時に適切な銘柄をお勧めする客観性、クールさが必要だ。酒が好きだ、薀蓄も語るなんていうのは、死ぬほど存在するのだろうが、酒屋の親父は、あくまで「酒を売ること」のプロだ。

酒というカテゴリー全体を俯瞰し、自らの嗜好を余り反映させることなく、しかも自分なりのこだわりも絶妙に反映させ、知識を整理し、位置付ける…頭の中に、酒ジャンルの巨大樹形図を完成させているに違いない。酒には、惚れているが、溺れはしない…みたいな、憎いぜ、アンチクショーというか、「貴方みたいな、男は初めてだわ」と女スパイに言われるような…というか。

仕事というのは、物凄く大雑把に言うと、他者に、何かの価値を提供することだ。趣味のように、自己満足でOKというわけではなく、色々な人の厳しい目にさらされる。

仕事ちゅうのは、甘いもんじゃおまへんで。若旦那、まだ話しの途中でっせ。先代が生きていらっしゃったら、どんなに嘆かれることか!!

どうせ努力するなら、努力しがいのある商材を選択するのは、重要かもしれない。売り物自体に、色々な種類があって、複雑で、深みがあって、何より愛情と誇りが持てるということは、重要ではないかしら。

「好きな事をする」=「幸せ」理論の本質は、「継続」すること。長い間つきあっても、中々よくわからない位の、難物と相対するほうが、人として成長するのではないか…とシミジミ思う、空腹マックス。

2008年02月10日

鎌倉散策(その24)

光則寺というところに行ってきた。場所は、長谷寺の直ぐ近く、大仏から歩いて15分位、駅までは、バス停5つくらいで、近くまでは、観光客で一杯。

長谷寺に行く道を、一本脇に入ると、人影もまばら。真っ直ぐ歩いていくと、光則寺はある。裏山を借景にして、手入れの行き届いた庭がとても気持ちがいい。紅梅、白梅、こうぞ、椿など、冬というのに、様々な花が咲いている。枝で一休みしている鶯やメジロ?(なのかなあ)。

鎌倉には、こういう寺が多い。

間口は狭い。だが、入ってみると結構スペースがあって、庭の手入れが細やか、四季折々で楽しめる。山を借景にしており、引いて観ると、全く違う景色が出現する。ミクロとマクロで、全然異なる、しかも完成度の高い絵になっている。また、もう一つの特徴は、観光客がひしめき合う雑踏を、一歩脇道に入ると、突如広がる静寂の中佇むように存在すること。

鎌倉のこういう、知る人ぞ知るスポットに行くと、必ず見かけるのが、一眼レフを、首にかけた初老の叔父様だ。彼らは、大体一人で、無口で、色々な角度から入念に検討を重ねた上で、一枚づつ丁寧に写真をとる。 グラビア撮影みたいに、「いいよ、いいよ、じゃあブラの紐、邪魔だから取っちゃおうか?」みたいなノリで、カシャカシャ連写することもなく、静かに、重々しく、カッシャ~~~と。 求道者のような、その姿に、思わず合掌をしてしまう、俺とマーメイドであった。

俺とマーメイドは、様々な話し(地球温暖化から夕食の献立まで)をダラダラしながら、お散歩をするのだが、今日は、「幸せとは何か」について、語り合ってしまった。

子供には、「好きな事を一つ見つけて、それを一生懸命やれば、今の日本で食いっぱぐれる事は無い」と言っている。「幸せ」というのは、「好きな事を一生懸命にやる」なのだ…というのが、我々のコンセンサスだ。

ただ、よくよく考えてみると「好きな事をみつけるって、言うほど簡単ではない」という事実に気付く。俺も、毎日仕事に血道をあげているわけだが、別にサイトサーチの直販ターゲットリストを作るのが、好きで好きでたまらない…わけでもない。

本来、「好きなもの」というのは、意識して「見つける」ものではなくて、「遭遇」したり、気がついたら、好きになっていた…という類のものではないか?まあ、そういう話になった。

じゃあ、どうすれば良いかということなのだが、魅力的な人々と会い、色々な話しを時間をかけてすること、今目の前にある課題に一生懸命取り組むこと、そういう事から何かが生まれる、ヒントを得られるのではないか? そして、色々な事を肯定的に、素直に捉えていく姿勢が重要なのではないか?

また、detailに拘るのも重要。上っ面だけではなく、細部に斬り込んで行って、初めて見えるものがある。

そ~んな話しをしながら、鎌倉駅西口商店街を歩いていて、ふらっと酒屋に入った。「司牡丹ありますか?」って、30代前半と思しき若主人に尋ねた。求めるモノは無かったのだが、若主人は、様々なバリエーションを丁寧に紹介してくれた。

色々訊いてみると、彼は、司牡丹酒造が新しい蔵を完成させたので、設備の稼動状況、新設備の特徴と品質アップの秘密などを見学するため、高知県佐川町まで行く予定とのこと。溢れんばかりの日本酒への愛情・情熱が、静かなコトバから伝わってくる感じだ。(彼の薦めてくれた「しぼりたて生原酒 純米超辛口 船中八策」を買ってしまった。 2月末の限定入荷版は、予約してみようという気になっている)

今話しをしていた、「好きな事をやっている」もしくは、「知らないうちに好きな事をやっていた」人に、いきなり、偶然、逢ってしまった。

恐らく(ここからは、俺の想像だが)、歴史のある酒屋の長男に生まれた彼は、店を継ぐという運命に反抗し、不良グループに入ってしまい、バイクを走らせた日々もあるのではないか?だが、気付いたら、目の前には酒があり、その奥深さにある日突然気付く。色々な本を読み、試飲をしてみる。それだけでは、満たされない彼は、直接蔵元を訪ね、色々な話しを聴き、更に酒造りへの造詣を深めていったのではあるまいか?いや、そうに違いない。

という訳で、俺達の今日の会話は、「あの二代目なら、あの店は安泰だ」という、思わぬ結論に達したのだった。う~ん、違うテーマについて話しをしていたよなあ~、確か。

2008年02月09日

YouTubeチェック:ユーミン、浜田省吾、TMN

人に備わった能力で、最も素晴らしいものは、どんな事でも忘れることが出来るということでは、なかろうか?

過去の恥ずかしい言動の数々など、一挙に連続して思い出したりすると、デスノートに名前を書かれたのと同じ位のインパクト…っていうか、同じ死因になりそうだ。

過去デジタルカメラのマーケティングをしていたにも関わらず、俺はカメラやビデオを撮るのも撮られるのも苦手な為、余り映像・画像の類が残っていない。 

結婚式場なんかで、よくビデオ撮影などをするが、これなど自傷行為に近いものがある。大体、その呪われたビデオテープ(DVD?)はどうするつもりか?陰陽師に、祈祷、印を結んでいただいた上で、周囲に結界を張り巡らした大木の根本に、埋める…というのが適切な処置だが。

友人を集めて観る?そりゃあ、ファシズムだ、白色テロだ、性質の悪い嫌がらせだ。婆さん、アンタにあの子の気持ちがわかるとでもいうんでっか?

個人で言えば、過去の映像などを自らの意志で残さない事が出来る。

ただアーティストは、そういうわけにはいかない。(俺が、ボーカリストになるのを断念した最も大きな理由の一つだ)

ここ数ヶ月、YouTubeで懐かしの洋楽、邦楽をチェックし、その度に身を震わせて、号泣恨三千年なのだが、身も心も凍りつく映像もある。以下、俺が遭遇してしまった寒い映像ベスト3.

3位:カンナ8号線 松任谷由実
ザンバラ髪のユーミンは、体にピッチリのレザーの上下で、何故か、両手を大きく交互に振り、ステージ上を行進しながら、あの名曲カンナ8号線を歌う。バックボーカル&ダンサー&ギター(高中正義なのだ)&ベースも含めて、同様に行進をする。ゴンドラで二階に移動しても行進する。曲の最初から、最後まで、イチニイチニで行進する。満員の熱狂する観客も、イチニイチニで足踏みをする。寒いというより、不可解な感じだが、俺もイチニイチニのリズムで聴いた。

この違和感が、時代のせいなのか、ユーミン個人によるものなのかは不明。最近のライブ映像で、ゆず+ミスチル桜井+ユーミンによる、「セシルの週末」を観た。途中、ユーミンの不可解なノリと振り付けに、ゆずの二人が当惑を隠せず苦笑いするシーンがあった。…やっぱ、ユーミンのせいか。

2位:J-BOYと愛の世代の前に 浜田省吾
ライブで、J-BOYを歌う前に、両手を挙げて,絶叫"Come on!! We are J-Boy!!” ウォ~(観客のどよめき)。

「愛の世代の前に」のプロモーションビデオ:何故か、歩道橋で、一人ギターを持って歌う浜田省吾。
サビの部分:「憎しみは憎しみで、怒りは怒りで、あがなわれることに、何故、気付かないのか?ウォウォ~」では、右手を前に突き出す。何度も、力強く。

何やら、世の中の矛盾に怒り、闘っている…?。「社会派ロッカー」的雰囲気を醸し出しつつ、大したことは言っていない。 過度にナルシスティックな感じが、とてつもなく寒い。凍りつきそうだ。

高校生の時は、えらく好きだったんだけど、もう聴くことはないのかも。ちょっと寂しい。マスター、いつもの奴頼む。

1位:セルフコントロール TMネットワーク
堂々の第一位は、TMネットワーク。

この曲を初めて聴いた時、知的で、クールで、都会的で、何てカッコいいのだろうと感動した記憶がある。

これは、ライブ映像で、メンバー、サポートミュージシャンの全員が、宇宙戦艦ヤマトの古代進が着用していたような、もしくは特撮戦隊シリーズの、ヒーローたちのような、衣装で登場。恐らく、デパート屋上のアトラクション会場以外、このコスチュームはないんじゃないか。 

ボーカルは、戦隊服を着て激しく踊りながら歌うのだが、その動きがスクールメイツっぽい。

セルフコントロール♪と、サビを何度か繰り返し、間奏に入る直前で、彼は、「セルフコントロール」と叫ぶと大きく右手を上に上げて静止。決めポーズらしい。変身するつもりかと思った。

うちの息子風に言えば、「チョー、だせぇ。マジで、やばくない」

どうして、俺はこのグループを、「知的で、クールで、都会的で、何てカッコいいのだろう」って思ったのだろう。 肝心の音も、今聴くと、とてもモッチャリして、垢抜けない感じだ。

YouYubeは、映像のパワーを、シンプルな形で、俺に教えてくれる。5年、10年、100年前の映像を、気軽に、日常的に、観る事ができるようになった。本当に、素晴らしいものであったのか、一過性のブームであったのかは、時の篩いにかけてみれば、残酷なまでに明白だ。

前に、少し触れた「セシルの週末」は、1980年に発売された「時のないホテル」に収録されている。20年以上の歳月を経て行われた当該ライブでは、全くのオリジナルアレンジで再現された。発売当時も感動したし、昨日も感動したし、今も聴きながら書いている。

2008年02月08日

再び、篤姫について

寒い。最近は、やたらと寒い。雪は降るし、ホントどうかしている。

前回、篤姫について書いたが、その後宮尾登美子原作、上下巻を一気に読んでしまった。

大河ドラマ篤姫の1~5回は原作になく、フィクションではないかと自信なげに書いたのだが、やはり宮尾本には当該部分はなかった。幼馴染で、準主役の小松帯刀は、名前すら出てこない。西郷隆盛とは、戊辰戦争後会ってはいる。ただ、篤姫は、身分が違う西郷と同席する事自体が、不愉快な余り、10分間で席を立った…と記されている。

勿論、宮尾本に記述がなくても、実際に、西郷、大久保、小松という維新の大物と10代の篤姫の間で、交友関係があったという可能性もある。 でも、やはり相当無理がありそう。まず身分上、直に会話ができる関係ではない(西郷、大久保の場合)。また、そういう事実があれば、メンバーが豪華なだけに、有名なエピソードとして語り継がれるはずだ。やはり、これはフィクションとみるほうが常識的だ。

それはそれとして…宮尾本を読んで感じるのは、篤姫の人生の悲しさ、寂しさ、切なさ。13代将軍家定は、余りに虚弱で、性交渉を持つ能力がなかった。22歳で嫁いだ篤姫は、24歳の時には後家で尼になってしまう。能力があって、美人で、体格がよく、思いやりがあって、大奥3千人を取り仕切り、「お止め」と言えば、蝉も鳴き止むと言われたほど権勢を誇った篤姫。 徳川宗家や大奥の女性、元幕臣などの崇敬を一身に集める存在だった。

でもなあ、24歳から、処女で後家で尼で、周囲女ばっかりで、義理の息子は15歳で、江戸城に送り込んだ島津斉彬は途中で死ぬし、慶喜はヒドイ奴だし…、大奥での生活も、水戸派、紀州派の将軍継嗣にまつわる陰謀・暗躍、皇女和宮との確執、夫,息子の毒殺疑惑など、もう陰惨な話ばかりで、正気を保つだけでも大変だったと思う。

宮尾本では、爽快な話は、欠片もない。読了後、正直、気持ちが冷え切って、落ち込んでしまった。余り、救いが無い人生なんだなあ。

このまま創ったら、とんでもなく平板で悲しい話になるので、大河ドラマでは、青春群像編の1~5回が製作されたのだろう。本来、この原作本を題材に選択したのは、何故なんだろう?

この友情やら小松帯刀から篤姫への恋慕の思いやらを横糸に(縦糸でもいっこうに差し支えないが)、攘夷運動、倒幕など歴史的事実を縦糸に、様々な思いが交錯し、運命にもてあそばれながらも、凛とした生き方を貫く篤姫とそれを支える仲間達っていう…割とポジティブなストーリー展開を目論んでいるとみた。

横糸がフィクションだとすると、進行するにつれて、歴史的事実との乖離は抜き差しならぬものになるに違いない。

敢えてストーリー性の少ない主人公を選んで、同時代の著名人との関係性を創作し、ドラマとして成立させるというのは、どんなもんであろうか?(最近の大河ドラマの歴史考証はフレキシブルすぎる)

まあドラマだから、致し方ないってことだろうか? NHKの大河ドラマという特別な性格から考えると、これを歴史的事実と思い込む子供もいそうだ。うちの息子は、「父ちゃん、篤姫はさあ、西郷隆盛とマブらしいぜ。まじヤバいって。」とか言いそうで怖い。(父ちゃんと呼ぶのはよせ。お父様、もしくはダディと呼べ)

明日もまた雪が降りそうだ。気温もかなり低そうだし、風も強そうだ。 そんな明日の天候にも似た、寒々とした世界で、強靭な精神力とプライドをもって堂々と生き抜いた篤姫というのは、大河ドラマのヒロインとしては、不適当かもしれないし、本人幸せだったとは、言い難いが、尊敬に値することは、間違いない。

2008年02月04日

「篤姫」観てます。

桜島が噴火したり、大雪が降ったり、中国ギョーザ問題があったり、倖田來未の羊水発言あり、MSがヤフーに買収提案ありと色々あった週末、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

さて、前大河ドラマ「風林火山」は、珍しく全回観てしまった。何度もブログで書いたとおり、亀治郎ウォッチの為に、毎週日曜日テレビの前に座った。

今回は、「篤姫」という、未だ嘗てなく地味で、無名な人物を取り上げたNHK。実は、この「篤姫」だが、これまでも色々な幕末物ドラマに出てきたのだが、大体において、ひどい脇役、悪くすると、皇女和宮を苛める、意地悪な後家という登場の仕方をしていて、とても一年間分もストーリーを作れる気がしない。

薩摩藩からの帰還嘆願書を自ら拒否して、滅び行く幕府を最後まで支えた気骨のある人で、出身藩である薩摩を主力とする官軍に、「攻めてきたら、城を枕に討ち死にするぞ、ニャロメ」と啖呵を切り、一方、江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談をセッテイングした…とのことで、何とも痛快な人なのね。

明治維新後も、徳川慶喜の助命に力を尽くし、大奥の女性達の生計を助けるために、私財をなげうち奔走し、死んだ時に所持金が、現在の6万円しかなかった…という無私で、真っ直ぐな生涯だったらしい。

立派な人だけど、これと言って他に有名なエピソードがあるわけでもないしなあ…と思いながら、第一回目から第五回目まで観たのだが、これがとっても面白いんだなあ。

今回の大河ドラマの原作は、宮尾登美子の「天璋院篤姫」だが、第一回目~第五回目は、全然原作にはないお話しのようだ。(ようだ…というのも、さっき買ってパラパラめくってみただけなので、自信はないけど)とすると、西郷隆盛、大久保利通と昔からの知り合いで、小松帯刀と幼馴染というのも、フィクションなのだろうか?

第五回目までは、宮尾本の制約がないせいか、若き日の西郷、大久保、小松、篤姫が織り成す伸び伸びした青春群像という感じで、とにかく宮崎あおいがキュートで困る。(困ってないけど)

また、お母さんが樋口可奈子で色っぽい。芸者さんみたいだ。そして、何と言っても、俺の一押しは、お父さん役の長塚京三。宮崎あおいとのやり取りは、これアドリブって…思うくらいおかしい。真面目で、真剣だけど、どこか滑稽で、愛すべき親父を、長塚京三が、いつものように、どこかオドオドしながら演じている。そう、奴はいつでも、オドオドしているんだけど、今回のオドオド振りは、とてもいいぞ、流石ソルボンヌ大学卒業だ。(ソルボンヌ行って、チョンマゲしている自分には、何の疑問もないのか?長塚京三!!)

宮尾登美子といえば、櫂、寒椿、一絃の琴、鬼龍院花子の生涯、陽暉楼、藏…と、何かこう暗くて情念ドロドロで、激しく叫んだり、露骨な性行為があったり…という印象を俺は持っているのだが、今後宮尾本のような展開をするのだろうか?ちょっと不安だ。

誠についでながら、この大河、ボーナスプレゼントとして、皇女和宮役で、なんと 堀北真希ちゃんが登場するのである(おじさんか?ちゃん付けか) 堀北真希と宮崎あおいという二大アイドルの登場が待ち遠しいって、俺は何者やねん。(ケータイ刑事ですね)NHKは、流石に押さえるべき所は、押さえているんだなあ…とご隠居も、ご機嫌でお茶を飲み干すのであった。