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2007年12月29日

帰還

取締役会を終え、納会で乾杯。オフィスを飛び出し、東京駅へ。

新幹線の長いホームに一箇所だけある喫煙所にダッシュ。タバコを二本立て続けに吸って、列車に滑り込む。

オフィスをでたのが、17時15分。実家のドアを開けたのが、日付変更線直前。6時間。いつもながら、故郷は遠い…物理的にも、精神的にも。

東京~小倉~門司~下関と乗り継いで、ようやく。

門司~下関間の景色は、暗く、寂しい。6時間前のイルミネーションで街中ピカピカ、カラフルな銀座から軽いグラデーションの後に、絶望的なモノトーンの世界。点在する灯。鈍い色をした壁だけが目立つ、殺風景な建物。人気のない道路。物質はないのに、濃密な濃いグレイ。

下関駅の前には、高校生くらいの少女が、独りしゃがみ込んだまま、動きを止めている。何故、そこに居るのか、誰かを待っているのか?冷たい小雨が降り続く中、空ろな視線を足元に向けたまま。時がゆがみ始める。

彼女の前を横切って、タクシーに乗り込む。「お客さんは、どこから?東京から?もう何年いるの?12年。よく頑張るね。昔6年間新宿にいた。独りが寂しくなって、体がイカレテ、こっちに帰ってきた。東京はあわない。田舎者は食い物にされる。人間扱いされない。キロ200円で働かされて、家畜の餌を食べて。友達が居なくて、独りで、体がイカレテ…。」

運転手の話は、止め処なく続く。何かの呪文のように、低く、くぐもった声で。「独りぼっちで、寂しくて、体がイカレテ…」

風呂に入り、冷たいミルクを飲み、長い時間をかけてタバコを吸った。

とにかく、何とか、やっとの思いで…我帰還セリ。

2007年12月25日

二度と会えない人々について

新サービスについて、考えを纏めていたとき、そうそうテキストマイニング処理をするといいよね...なんて思いついた。

早速、パワポに、「簡易テキストマイニング処理検討」って入力...。藤田さんを急に思い出した。

去年の10月に、藤田さんが亡くなって、既に1年以上が経過した。時々思い出しては、とても不思議な気がする。死んだということ、もう俺の前には現れないこと、決して会えないこと...どれも同じことなのだが、どれも理解できない。

急にいなくなって、永遠に会ったり、話しをすることが出来なくなる...それが死だという事は、一時期に集中して近親者を失った経験のある俺は、骨身に沁みてわかっている...はず。でも、何故?、どうして?といつまでも思ってしまう。

昨年は、叔母も亡くなった。この29日に法事があり、親戚が集まる。ファミリーの中心人物であった彼女が、リユニオンの場に、何事もなかったかのように登場しても、余り違和感なく、しっくりきそうだ。そこに存在しないことへの違和感に比べれば。

藤田さんが、死ぬ数ヶ月前に、彼のマンションで色々な話しをした。既に、抗がん剤の為、毛髪は抜け、凄くやせていた。でも、話しっぷりは、以前と変わらず、明るく、悲愴感の欠片も感じられなかった。彼は、PCで、彼を蝕んでいるガン細胞の画像をみせながら、俺に病状を説明した。まるで、医者が患者の症状をクールに分析するようだった。

本棚には、自らの著書が並んでおり、机の上には、レンタルDVDが無造作に置かれていた。全部、アクションヒーロー物だった。

彼は、その当時、自分の生き様を色々なメディアを通じて多くの人に伝えようと、飛び回っていた。何が、彼をそんなに駆り立てるのかは、俺には判らなかった。のた打ち回るような痛みに耐えながら、彼が作ろうとしている「最後の事業計画」なるものも、俺には今ひとつピンとこなかった。

その晩、俺は、「好きな女がいるんだったら、二人で何処か静かな場所で、過ごしてみたらどうか?」と、遠慮気味に切り出した。その問いは、スルーされ、「女は最後には、金になびきますよ」「女子アナというのは...」と、いつものヒルズ系トークを始めたのだった...。

今つらつら思う。俺は、知らず知らずのうちに、末期ガンに侵された彼は、近いうちに死ぬという想定のもとに、彼と会い、彼と話しをしていた...と。

彼は、死ぬ気なんてさらさらなかった。安らかに死を迎えることなど、考えた事もなかったのではないか。生きることだけを、懸命に追求していた...そんな風に感じる。

病には、決して負けないし、病が、自分の人生に影響したり、生活をコントロールすることは、絶対に許さない~そんな強さ、尊厳を守ろうとした意志。 どうすれば、人はそんなに強くなれるのかは、俺にとって永遠の謎だ。

そんな強い人間が、あの若さで逝ってしまったのは、もっと大きな謎だ。全く理解できない。

2007年12月22日

自分のことはわからない、さっぱり。

自分では気付かない事はある。多々ある。自分のことは、中々わからない。

先日、社内で打ち合わせを終えて、「来年はいい年になりそうだね」と呟いたところ、社員の方から、「金田さんは、毎年そう言っていますけど…。ほんとっすか」と言われた。

俺自身は、来年は、従来とは違う年になるとマジで思っている。よって、我知らず思っていることを呟いたのだ。 まさか毎年同じ事を言っているとは、全然思わなかった。

人と人とのつながりの儚さに、思いを馳せることが多い。例えば、今度高校の同級生で飲むのだが、毎年会うそのメンバーについても、卒業以降の20数年間に、何が起こって、どう悩み、過ごしてきたかなど、全く知らない。恐らく、悲喜こもごもの日常があり、職場で、家庭で、様々な経験をしながら、過ごしてきたはず…。学校で、部室で、毎日長い時間を一緒にすごし、多くのものを共有していた頃には、親兄弟より近しく感じられたのに。 今はもう、何もわからない。

古い友人についてさえ、リアルな感覚を喪失している。

仕事関係になると、更につながりにリアリティを欠く。

オフィスでの、やり取りは、あるものの、実際どういう生活をしているのか、どんな人間なのかについて、深くは知りえない。部署、職場、取引環境などの変化で、消えてしまうような、つながり。「知っている」もしくは「知っていた」ような、実体の薄い関係の記憶だけが残る。

東京で働きはじめてから、人間のつながりの希薄さを、とても痛切に感じるようになった。

そういう事を、深夜、マーメイドに、しみじみ語った。すると、彼女は、途中から、ぴくぴく体を振るわせ始めた。そうか、同じようなことを考え、感傷的になることがあるんだろうなあ…と思って、様子をみると、ちょっと違う。

マーメイドは、ついに耐え切れず、大声で笑い始めた。「坊や、まだまだ青い!! さすが、永遠の14歳ってか」

物凄くおかしかったが、俺が、余りに大真面目に語っていたので、笑いをこらえていたんだと。彼女曰く、「大学生のときも、同じようなことを言っていた」らしい。

「そんなに言うこと、やること、変わらない人も、珍しいね」と、駄目を押された。

俺は昔から、ちょっとメランコリックな、ポジティブ野郎だった...ということが、判明したわけだが、それは、自分の思っている、自分の姿とは、かなりかけ離れている。

このように、自分のことは、中々わからない。(俺だけに言えることなのか、皆そうなのか???は、尋ねたことが無いので、よく判らない)

2007年12月18日

姫の告白ってか

世の中には、色々な人がいる。

大雑把に言えば、
タイプ1:理解でき、かつ共感出来る人
タイプ2:理解できるが、共感は出来ない人
タイプ3:理解出来ないし、(勿論)共感も出来ない人

「タイプ2」について言えば、文句、不平・不満ばかり言っている人、常に物事の捉え方がネガティブな人、直ぐ腹を立てる人、評論はするけど実行はしない人、自分のことを可哀そうだと思っている人、他人と自分を比べてばかりいる人、俺の事を嫌いな人...などのパターンが挙げられる。

共感は決して出来ないが、どうして、そういう行動パターンになるのかは、理解は出来るので、それなりのお付き合いは出来る。

一番困るのは、「タイプ3」で、どの惑星から来たのか、お前は?...という感じで、視界にいきなり入ってくる。もう大変。多くの場合において、周囲をあっという間に混乱に陥れ、厄介この上ない。本人は至って平気で、如何に修羅場でも、ティータイムには紅茶を飲むのを忘れないのだ。(あくまで、そういう感じ...という事だが)まさに脅威。

「姫の虎退治」という、時代がかったキャッチで登場した姫井由美子氏。選挙期間中、彼女が訴えたのは、学校、家庭、地域が一体となった教育の重要性。既婚で、一男一女の母親である彼女の主張は、バックグラウンドを踏まえた、非常にわかり易いもの。フレッシュでクリーンなイメージとベタなキャッチも何故か受けて、「自民党参院の顔」片山虎之助を破って当選。

選挙後、例をみない迷走が始まった。「元愛人」を自称する元高校教師が週刊誌で“不倫”&SM性癖を暴露。また選挙活動費水増し請求疑惑なども発覚。岡山県連の副代表であったが辞任を余儀なくされた上に、厳重注意を受けた。

普通は、こういう事があれば、大人しくするはずなのだが、初当選を果たした今年7月の参院選や、その後に浮上した元高校教師との不倫スキャンダルの“真相”が語られた内容の自伝を出版するらしい。仮題は、なんと「姫の告白」。

勿論、地元岡山県連が猛反対。県連幹事会でも「姫井さんの本はどうなっているんだ」と話題に。県連内部では「何を書いても面白おかしく騒がれるだけ。党のイメージダウンを避けるため衆院選までは出版するな」と“差し止め命令”の声が上がった。幹部からは「出版したら離党勧告だ」という発言も。

考えてみれば、SM性癖も、どうぞご自由に...ということだし、不倫をするのも、姫の勝手でよろしゅう御座います。 ただ、家庭教育の重要性を訴えた選挙期間中の主張は、何だったのかしら?と世間は思う。

TVにご登場する姿をみるに、姫っぽいのは、苗字だけ、叩けばスキャンダルが続出の状況。モラルを語りながら、とってもインモラルでスキャンダラスな感じが漂う。こういうイメージは、一刻も早く払拭したいはず、普通は。

こういう時に、何故「告白本」を出版する気になるのか、それが全く理解できない。

「イジメ、初キッス、マリッジブルー、夫婦別室、セックスレス、そして不倫騒動、必見コスプレ写真などが入ったミニ写真集付 参議院・姫井議員”初の告白本”。彼女のオンナとしての告白がここにある!」というのが、この本のキャッチらしい。

コスプレ写真集...、オンナとしての告白...何というか、う~ん。(民主党岡山県連の皆様、ご同情もうしあげます)

姫井氏は、出版についてこう語っているらしい。「多くは語れません。離党にならないように努力するだけです」、「離党になっちゃったらどうしよう。せめて謹慎にしてほしいけど。こうなったら新党か、な…」

俺の思うに...。
この人は、ただ目立ちたいだけだ。政治家になった理由も、参院選に出馬した理由も、とにかく、ひたすら目立ちたかっただけ。不倫スキャンダルも、実は、皆から注目されるので、とても嬉しかったのではないか? 皆の注目を失う恐怖感から、告白本を出版することにした...ってことなのではないか?

やはり、彼女は、違う惑星からの飛来物と見るべきだろう。それにしても、彼女に惨敗した、虎之助は無念だろうなあ。酔ったら、「俺は、あの女に負けたのか?」と愚痴をいいつつ泣き上戸。周囲の人間も、慰めの言葉が見つからないよな。

2007年12月16日

プーチン氏とリーダーシップ論

社長というポジションにいて、組織とメンバーについて、深い関心を持たない人はいないだろう。

ほんの数年前まで、俺は社長はある種の機能であるという定義をしていた。しかし、それは、ちょっと違う...と最近では思う。「機能」と言えば、何か機械的、オートマティックに、問題を次々処理していくイメージだが、実際には、もっと曖昧模糊としたもの、様々な感情だったり、複雑な交換条件だったり、ドロドロしたエリアで、どう最適解を見つけるか...という業務ではないか。

そんな「業務」をこなしていると、自然と「組織と人」についての興味が湧いてくる。
最も切実な興味は、リーダーは、どのようにしてリーダーになり得るのか?社長、部長、取締役、ディレクター...と色々役職はあるが、その役職は「リーダー」であることを、保証しない。

一般的なリーダーシップの定義は、 

一人の人間がその他の人間から服従、信頼、尊敬、忠誠、協力を得られるような方法で人間の思考、計画、行動を指揮でき、かつそのような特権を持てるようになる技術及び才能を指すと考えられている。それは意思決定を行う指揮、労力や資源を配分・管理する統制、心的作用による統御の三機能から構成されると考えられている。以下略 <ウィキペディア>

勿論、上述「指揮」「統制」「統御」を行う為には、ヒエラルキーにおけるある程度の位置付けが必要なケースが多いが、それだけではない。

俺は、ニューズウォッチ社の5人目の社長なのだが、赴任してきて直ぐ、社員の一人にこう言われた。「この会社の本当の権力を持っているのは、社長じゃないですから...」 そういうわけで、5年間で5人も社長が代わっているわけなのね...なるほどと得心した。

リーダーが、ヒエラルキー上の位置だけでで決まるのでなければ、何が決定要因なのか。例えば、プーチン氏のケースはどうか?

プーチン氏は自らの後継候補にメドベージェフ第1副首相を選択。メドベージェフ氏は、来年3月の次期大統領選挙を待たずに、プーチン氏を「首相」に指名。子分を、大統領に指名したら、その子分が首相に親分を指名したってことだが、日本の同族企業でありそうな話し。実力社長が、次は副社長として、実質的に会社を仕切リ続ける話しに近い。

今更、ロシアが民主主義国家だと思っている人はいないと思うが、健全なる政権交代という民主主義の大前提を覆し、政府を、プーチン氏の故郷サンクトペテルブルク出身の身内、旧友、KGB時代の部下や側近などで固め、立法、司法、行政の三権を中央集権化、独占化し...というのはやはり異常な状況だ。ただ、下院選挙で、圧倒的な勝利を収めたところをみると、ロシアの皆さんは、「ツァーリ、皇帝」を求めているということか?

新大統領は、組織図上では、完全なるトップ。また、プーチン時代にその権限は、最大限に強化をされている。オフィシャルには、メドベージェフ氏は、プーチン氏を圧倒的に上回る権限を有する。その状態でも、プーチンが「皇帝」であり続ける根拠って何なのだろう。

権力とは何か?人は、何に従うのか?という問いなのだが、非常に難しい。リーダーシップの定義では、「服従、信頼、尊敬、忠誠、協力を得られるような方法で人間の思考、計画、行動を指揮でき、かつそのような特権を持てるようになる技術及び才能」とある。つまり公的な権限ではなく、技術や才能としてリーダーシップをみなしている。だが、そのような技術・才能の所有者とは、何者だろう?(催眠術師、陰陽師、詐欺師、カルトのグル...のうちの何れか?)

プーチン氏の武器の一つは、彼に逆らうものに対する直接的な報復が行われるであろうという「恐怖」だろう。多くの大企業で社長や部長が持ちえる武器も、同じようなもので、反対者には、「冷や飯を食わせるぞ」「セントへレナ支店に飛ばすぞ、この野郎」といったものか。
同じ派閥に属した人間には、手厚い処遇を施すという、「メリット提供」も、「恐怖」の裏返しで、一つの理由にはなる。

ただ、この賛成・反対により、将来被るかもしれない「メリット」の素晴らしさ、「デメリット」の恐怖を創出する能力は、ある人間がリーダー足り得るかの要件を、ごく一部説明しているに過ぎない。もっと、大きなシークレットがある...筈だ。

リーダーとは何か、フォロワーとは何か、組織とは何か...という問いかけは、まさに「人間とは何か」という問いかけと同義だ。つまり、人類誕生から、ずっと問い続けているのに、誰も答えに行き着いていない課題だ。どんなに、小さい組織であっても、運営するのは、難しいわけだよね...と納得する。

ただ、難しいからと言って、問いかけと思考をやめるわけにはいかない...そうやって苦しむのも業務の一つと思うようになった。


 
  

2007年12月13日

パワハラ考

大学時代は、英語クラブに4年間所属。

このクラブは、文科系にもかかわらず、時間的にハード。朝は週5日、昼は週5日、夜は週4日練習がある。春夏秋冬の休みに、夫々英語キャンプを行い、それ以外にも、クラブ主宰のオープンディスカッションミーティング、部内のディベイト大会、他大学のキャンプ、その他イベントへの参加。スピーチコンテスト、レシテイションコンテスト、ディベイト大会への出場など。

俺は、授業への出席率は異常に低いのだが、部室と溜まり場になっていた近くの喫茶店、練習への出席率は高く、毎日かなり長い時間をキャンパスとキャンパス周辺で過ごしていた。

顔つき合わせている時間が長いので、人間関係は非常に濃い。

2年生のときに、4年生の女性の先輩に呼び出されて、「金田君は、女性の扱いが、ぞんざい過ぎませんか?」俺は、後輩を全て、男女関わらず苗字呼び捨てで呼んでいて、留学帰りの先輩からみると、それがとても乱暴に見えたらしい。せめて、ファーストネームに「さん」付けで呼ぶべきではないかと。

男の悲しい性なのか、若くて、可愛い女性には弱い。ちょっとキュートだと,ちやほやするし、甘くなる。

男性先輩諸氏の割と露骨な、その傾向が、とても嫌だなあ...と感じていた俺は、男女関わらず苗字呼び捨て&超ワイルドな態度で接していた...ようだ。(若くて、可愛い女性に辛く、厳しく当たるという、割りの合わない事をしていたのね。完全なる若気の至り。)

「無愛想で、エラそうで、高圧的で、自分勝手で、仲のいい人間でグループを作り、突然変に盛り上がるし、それ以外の人は排除する雰囲気が強くて、大嫌いだった」と、当時、俺の後輩だったマーメイドは、語る。誰についての話か、全くわからなかったので、尋ねると、「貴方以外に、誰がいるというのよ」。(トホホのホ)

俺は、大学二年の初夏、教授が主催した日中友好団に参加し、帰国した後、黄砂を吸いすぎた為か、軽い肺炎になって、医者に通っていた。丁度、通院の帰りに、その当時、まだ単なる後輩だったマーメイドに会い、「お元気ですか?」と声をかけられた...らしい。(俺の記憶は既に消去されているが、彼女の記憶は、何故か生々しく、年々強化されている感じさえする)

俺は、その時、冷たい視線を彼女に向け、こう言い放つと、彼女を無視して、ずんずん歩いていったらしい。「病院通いの奴が、元気なわけないだろう。馬鹿」

過去の事例を文字にすると、呆れる位ヒドイ奴。とても自分の事とは思えない...。しかも、マーメイドの話によると、この手のエピソードは、あと200以上あるらしい。

学生『ちゃん』付けパワハラ 山梨 大男性教授を減給処分

2007年11月30日 東京新聞夕刊

 山梨大(甲府市)は三十日までに、女子学生を「ちゃん」付けで呼び不快に感じさせたのはパワーハラスメント(パワハラ)に当たるとして、同大大学院医学工学総合研究部の五十代の男性教授を減給一万七百四円(一回)の懲戒処分にした。

 同大によると、教授は昨年の九月から十一月にかけ、指導する研究室に所属していた女子学生に対し、名前に「ちゃん」を付けて呼ぶなどしたため、学生が不快に感じていたという。

 女子学生から相談を受けた大学側が教授らから話を聴き「地位を利用した嫌がらせ」と判断した。教授もパワハラだったと認めているという。以下略。

パワハラとは、辞書で引くと

パワーハラスメント(Power harassment)とは、日本語で権力や地位を利用した嫌がらせという意味で用いられる言葉である。会社などで職権などの権力差(パワー)を背景にし、本来の業務の範疇を超えて継続的に、人格と尊厳を傷つける言動を行い、就労者の働く環境を悪化させる、あるいは雇用不安を与える行為である。 ウィキペディア 以下略

人の呼び方は、とても難しい。苗字+ちゃん付けは、俺もオフィスでしている。他者の快・不快というのは、正直よく判らないことも多い。気付かないうちに、何らかのハラスメントを与えている事もあるかもしれないと考えさせられる。

このパワハラの結果、被害者がうつ病、PTSDといった精神疾患を発症したり、退職や自殺に追い込まれてしまう事も少なくないとのこと。

俺の大学時代の所業も、先輩という立場を利用して、後輩に対して、理不尽な行為をとっていたという読み方をすれば、立派なパワハラになるのかもしれない。

多くの企業においては、パワハラについての正しい認識そのものがないという、プリミティブな状況が放置されているというのが現状のようだ。

大小を問わず全ての組織において、何らかのパワーを有する立場にいる人間は、常に意識すべき事項であることは、間違いない。自分の言動について、ピュアに客観視することは、不可能。また、パワハラと教育的指導の線引きは、極めてファジーだ。第三者の声をきけるスキーム(360度評価など)は、今後必須になっていくに違いない。

人間は、間違いを起こす。

大学時代の俺のように。本来の俺の姿である、ヒューマニストにして、フェミニストの側面をもっとアピールしておけば、更にモテモテだったに違いないのだ。(痛恨の極みだ) 

間違いを短期間で認識し、修正することができるよう、常に自分を厳しく見る目と謙虚さがなければ、パワーを有する資格はない。21世紀のリーダーに求められるのは、効率性、スキルというような、数値換算が容易な領域だけではなく、生身の人間を取り扱う曖昧で、混沌としたエリアをマネジメントする能力。それを、「人格」と表現することは、割と適切ではないかと思う。

2007年12月12日

ラストサムライ

エアロバイクを毎日15分こぐと決めたにもかかわらず、なかなか実行できない。

マーメイドからは、「何がアスファルトよ、どこがパンサーよ、このままいくとアスファルトピッグですわね、オッホッホッホ」と責められて、辛い毎日を送っている今日この頃。皆様、お変わりございませんか?

勿論、俺はアスファルトになると言ったわけではない。綺麗に痩せて、しなやかな肉体を取り戻し、カモシカのように都会を疾駆するというイメージに言及したに過ぎない。だったら、アスファルトパンサーでなくて、アスファルトかもしか…だろうという声も聞こえてくるが、やはり「アスファルトかもしか」では、語呂が悪い。やっぱ、疾駆するのはパンサーでしょうという話だ。(ジャガーでも差し支えないようにも思える。自信はないけど) 勿論、本当に獣化しようというわけではない。
とにかく、中々公約は守れない。舛添大臣の肩を叩いて励ましてやりたい気持ちだ。

2007/12/11-20:13 日本刀禁止法策定へ=英政府  【ロンドン11日時事】11日付英大衆紙サンは、同国政府が日本刀禁止法を策定する方針だと伝えた。国内での製造、輸入ともにすべてできなくなる。同紙は社説で「サムライ・ソード(日本刀)は、人を効率的に殺すためだけの目的につくられ、悪用されれば銃と同じくらい危険だ」と指摘 以下略 時事通信

この記事によると、日本刀は2003年以来100件の犯罪で使われ、少なくとも6人が殺害されたのだという。イギリスという国は、やはり、中々奥が深く、一筋縄ではいかない。人を殺そうとするときに、日本刀を選択するマニアックぶり。(人殺しに、日本刀を引っさげて行くのは、嘗ての、高倉健&東映仁侠映画くらいでしか、お目にかかれない)

日本刀というのは、慣れない人が使うと、自分も怪我してしまう。長い刀だと、抜くのも一苦労。

実際の戦闘でも、人を1~2人斬ると刃こぼれして使い物にならなくなるし、実際人を斬るのは、もの凄く体力を使う…らしい。

足利義輝は、襲撃をうけたとき、名刀を周囲に数本たて、斬っては刀を替え、斬っては刀を替え...したらしい。義輝は、免許皆伝で、歴代将軍の中で、最高の剣豪といわれている。彼ですら、人を斬れば、刀は直ぐ使えなくなる。

相当訓練を小さな頃から積んだ人達、つまりサムライしか、この刀を効率的に人殺しには使えない。日本では、既に美術工芸品として鑑賞の対象なのだが、イギリス人は「人を効率的に殺すためだけの目的につくられている」という驚くべき認識を有している。上杉謙信あたりと意気投合しそうだ。

彼らこそ、ラストサムライと呼ぶに相応しい国民だ。なんて立派、パチパチパチ。

以前読んだ本によると(記憶はかなり曖昧だが)、イギリス人の子供の多くは、日本と中国は地続きだと思っている。大人も含めて大勢のイギリス人は、靖国神社は、中国にあると信じている。そして、彼らは、日本人の多くは中国人の親戚がいるという印象をもっている。

さすが大英帝国だ、さすがジャンヌダルクを火炙りにする快挙を行った国だ。食い物が世界一不味いだけのことはある。パチパチパチ。

因みに、シャーロックホームズは柔道の黒帯で、モリアティー教授をフォイエルバッハの瀧に柔道技で投げ飛ばしている親日家だ。(恐らく体勢から考えると、技は巴投げだ) 
ホームズだったら、「ワトソン君、わが大英帝国政府の要人達は、皆16世紀生まれなのかね?」位のことは言ってくれるに違いない。

2007年12月11日

「日常の思想」から

大体、常に数冊の本を併読している。

通勤カバンは、この読みかけの本と、ノートブックPCと、その時々の関連書類で一杯のうえ、使い方が乱暴なのか、いつも数ヶ月使用すると、見るも無残。現在のカバンは、何号目かわからないが、不自然に膨れ上がったカバンを無理やり閉める作業を継続していたら、ファスナー部分がズタズタ。

現在併読中なのは、宮尾本「平家物語」 「日常の思想」 「生物と無生物のあいだ」。

読み終わるスピードは、読み易さによるところが大きく、小説はストーリーが面白ければ一日で読み終わる。(その場合は、他にやるべき事は、全部後回しになるので、後で辛くなる。忙しい時に限って、面白い本に遭遇してしまうの)

ビジネス書を読む場合は、大抵業務の必要上に迫られて...という場合が多い。奥歯に予め仕込まれたスイッチをカチッと噛むと、加速装置が作動して、一応マッハ5で読める。右上方から45度下にざっと斜め読みするので、まあ2~3冊なら、ワードでサマリーを作りながら読む事が可能。ただ、この読み方は、サイボーグの俺でも、かなり疲れる。それに、楽しくない。

中々読み終わらないのが、「日常の思想」でやっと半分。これは、面白いし、文章も簡易明白、短文ばかりなので、読み易い。何故、時間がかかっているかというと、心の琴線に触れる部分が多く、割と考え込んでしまう部分が多い為。

著者は梅原猛。1970年代に書かれた文章が多い。

今日読んだ項目。「進歩信仰」。ラフに要約すると...

「近代人は何も信仰していなように思われるが、進歩信仰とも言える「信仰」をもっている。中世ヨーロッパ人は、キリスト教と歴史を信仰した。しかし、近代人は、歴史は進歩するという信仰のみ受け継いだ。この進歩信仰は、明治以来の日本人の信仰になった。

神を祈る信仰を、迷信とののしりつつ、歴史は無限に進歩し続けるという信仰は、疑ったことすらない。盲目的な信仰者である。無限に未来に向かって進歩を続けるのであれば、現状にはいつも欲求不満を感じ、そのことを理性的であることの根拠とみなしている。」...てな感じである。

この文章が書かれたのは、高度経済成長時代であり、進歩信仰が戦後最も高まった時期である。一生懸命働けば、給料は増え、新しい家電製品、乗用車を買うことができ、生活は豊かになった。そして、その進歩は無限に続くように思えた。

経営者は、終身雇用制度と年功序列制度を、絶対的教義のように唱えていた。

全ては、何の根拠もない幻想だった。30年経過をした今、その残骸が寒々とした風景を創っている。高度経済成長とバブルを踊った無責任な世代のツケが遅れてきた世代の背中にずっしりと食い込む。

将来が無限に進歩し、生活が無限に豊かになる...そんな事を今考えている人間は、相当御目出度い。
科学技術の進歩が人間の明るい未来を約束するとは、とても思えない。

著者が言っているように、神を迷信として捨て去り、盲目的に信じていた進歩信仰さえ幻想であることが明らかになった。現代人は、今拠ってたつ所、絶対的基準となりうる思考の背骨を失ってしまった。

人間関係の希薄さ、ワーキングプア、ネットカフェ難民...。生きていくことに困難を感じる放浪者の群れ。
多くの人間が絶対的なものを失い、価値観の混沌化、流動化に歯止めがかからない。

もし、人間の本質が変わらず、何か絶対的に信じる何物かを必要とするならば、更にこの傾向は強くなり、精神的難民で街は溢れてしまうだろう。行き着く先は、奇跡と予言でマインドコントロールするカルトの出現か、カリスマによる独裁か、無関心、無気力、無秩序な世界か...。

著者は、この短文の最後をこう結んでいる。「今は、近代文明原理そのものが、根本的な批判にさらされるべきときだと私は思う」 30年経過したが、この問いは未だ有効なままだ。

年末だもの

28日深夜に、帰省する予定。

29日は法事があって、30日には高校の同級生と、卒業以来続いている飲み会。1日には、親戚が集まって宴会。2日はお出かけと、着々と楽しいプランを進めつつある。(現実逃避か?)

去年久しぶりに元旦に親戚が集まった。 案外、賑やかで楽しかったので、今年もやろうという話し。最近は、便利なもので、通販で色々買える。「生で食える、焼けば食える」という基準で、元旦用物資を調達し、送り込もうと思っている。ブリ一本さげて登場とか、木箱で生きた車海老を...のような嘗ての豪快さには欠けるのだが、こじんまりと、ささやかに楽しみたい。

宴会ということになると、いつもの癖で、アトラクションは必要ないのか?気になる。親戚の集まりだし、平均年齢は高い。俺はもしかすると若手?。(地元では、皆俺の事は、ちゃん付けで呼ぶんだ)

婆さんと、ジャンケンビンゴゲームなんてやるわけにはいかない。水芸や南京玉簾などの大技を炸裂させるほどスペースはない。酔っ払いの爺さんに手品をみせても...。花札トーナメントか?

幹事をお願いする友人に連絡を取ったり、実家に電話をしたりしていると、元々後ろ向きでくよくよする性格の俺は、が~んと昔の事を思い出して困る。

先日、CDショップに入ったら、そんな気は全く無かったのに、どうしても聴きたくなって、小田和正と井上陽水のベスト盤を購入。

今聴きながら、ブログを書いている。数十年ぶりに聴く懐かしい曲(神無月にかこまれて、断絶、紙飛行機、太陽の町、ひとりで生きていければ、愛の中へ、たそがれ...etc)が流れる...もうなす術なし。

時は止まることがなく、流れているのに、どんな時でも全力を尽くしてきたはずなのに、前向きに生きていこうとしているのに、過去の事は綺麗さっぱり忘れたはずなのに、目の前の課題は山積みなのに、40歳を過ぎたというのに...。

記憶から消し去りたいことばかり、思い出してしまう。 高校生、大学生の時の気持ちになってしまうのは、どうして? 辛くて逃げ出したいのに、CDは聴き続けてしまうのね。

時々、ショック死するかもしれないという悲壮な決意で、ブログを読み返したりすることがある。勿論、そんなに長くは、耐えられない。ホントに過去の事を女々しく振り返る内容が多い。驚く。恥ずかしい。

本当に女々しいんだな、俺は。女々しい男の世界ランキングがあったら、ベスト10に入っちゃうのかな。でも、いいんだ、別に。人間だもの。師走だもの。年末だもの。

2007年12月09日

関東学院大学ラグビー部大麻事件に思う

関東学院大学ラグビー部大麻事件には驚いた。

イギリス遠征時に大麻の種を入手して、栽培していたとは??? 大麻事件と言えば、盛り場に売人がいて、すれ違う時にさりげなく手渡すというようなイメージをもっていたが、大学の寮で、種をまいて、(恐らく)肥料なども与え、丹念に育て上げるとは、お前らどんだけ質実剛健やねん?

大麻を栽培するのも吸うのも違法である事は、当然皆承知だろう。18歳を越えた、ある程度分別がつきそうな大学生が...、日本で有数のレベルを誇る運動部メンバーが...何故?
大麻を吸った12人のうち、レギュラーメンバーは一名のみ...。

ラグビーの超名門大学だけに、高校オールスターズみたいな面子が集まっている。逃避したくなるような現実があったのだろうか?全く事情は知らないが、いくら努力してもレギュラーになれない苦しみ、才能のあるメンバー間で繰り広げられる競争への疲れ...ついつい大麻に手を出してしまう心の隙間が生まれる状況があったのかもしれない...。決して、大麻を吸うことを正当化することはできないが。

先日、従兄弟と飲んでいて、スポーツに一生懸命打ち込むことは素晴らしいと言う話になった。元三段跳びの選手である彼の言うには、「自分の限界を思い知ることができる」

特に陸上競技などでは、タイムという非常に明確な形で、自分の能力が示される。どうあがいても、あるレベルまで行くとタイムを縮めることが出来なくなる。かなり残酷な話しだが、それが限界。

同時に、彼が言っていたのは、「努力を継続出来るのも才能」

「限界」にぶち当たった時に、努力を継続できるということは、最も素晴らしい才能...と彼は言う。大抵の人間は、心が折れてしまう。ファイティングポーズをとり続ける勇気、情熱があれば、奇跡も起こせる~限界を超えられるかもしれない。ちょっとした頭の良さなどは、継続できる能力の前には、全く敵わない。

うちの野球少年は、志望校への推薦入学をほぼ決めた。 内申書で在る得点以上が要求されるのだが、これまでの持ち点がひどく不足。3年二学期末、勝負をかけた定期考査で史上最高得点を取って、何とか滑り込みクリアー。

マーメイドは、期末試験準備日々スケジュールを作成し管理。英語を教え、数学を教え、空いている時間には、自ら中3用数学問題集の図形問題を解いていた。(勿論、教える為の準備。中学校3年の息子に、数学を教える母親とか、余りいないのでは?)彼女曰く、「適切な補助線が引けて、すっきり解けると気持ちいい」...らしい。

本人は、周囲の多大なるサポートを受け、やっとこさ推薦条件をクリアーした事は既に忘却の彼方、頭の中は、もう高校野球で一杯。硬式用グラブを買い、新しいスパイクを買い、朝6時からランニング...。そもそも、推薦入学を狙ったのも、Ⅰ~3月を硬式対応の練習に充てたいという本人の希望だ。

来年4月から、高いレベルに挑戦することになる。何度も壁にぶつかるだろうし、限界を感じる時がくるかもしれない。勉強との両立も大変だろう。

両親から受け継いだ遺伝子には、高い身体能力も天才的頭脳も、全く含まれていない。ただ、「コツコツと努力する能力」だけは、伝えたはず。失意の時には、その事を思い出して、逃げずに真正面から困難に立ち向かって欲しいと強く思う...のであった。


2007年12月07日

安藤裕子ばかり聴いています

「トマソン」という言葉を久しぶりに思い出した。

トマソンとは ウィキペディア

トマソン、もしくは超芸術トマソン(ちょうげいじゅつとまそん)とは、赤瀬川原平らの発見による芸術上の概念。不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物。創作意図の存在しない、視る側による芸術作品。

中略

トマソンの語源
トマソンは基本的には無用の長物を意味する。語源は、元読売巨人軍の外人助っ人のトマソンに由来する。 この巨人軍のトマソンが前評判の割に、役に立たなかったため、無用の長物のことをトマソンというようになった。

トマソンの発見
1972年、赤瀬川原平、南伸坊、松田哲夫が四谷の道を歩いていると、上り下りするだけで上った先には特に何もない階段を発見した。

翌年、赤瀬川原平が、江古田の駅である窓口を発見した。ベニヤ板で塞いである使われなくなった窓口である。そのベニヤ板が、必要以上に律儀に、微妙な曲線に合わせて切断されていた。

また、南伸坊が、お茶の水の病院で、塞がれてしまったがきわめて堂々とした門を発見する。

これら「四谷の純粋階段」「江古田の無用窓口」「お茶の水の無用門」は、”作成者が芸術と考えていない芸術=超芸術”と定義され、「超芸術」の中でも不動産に付着するものに「トマソン」という名前が与えられた。当時、読売ジャイアンツに助っ人として所属したが、さっぱり打てないゲーリー・トマソン選手にちなんだ名前である(「無用なものを保存している」としてこの名前になったが「写真時代」連載開始直後に解雇となる)。
以下略

無用の長物で製作意図は全く不明だが、何故か美しく保存されているもので、存在する必然性は全く欠如している。

何故、この言葉を思い出したか?

最近、お気に入りは、安藤裕子(ニュースキャスターではない)。2年前のアルバムを繰り返し聴いている。中々、アルバム全曲聴きとおす忍耐が続かない昨今、全曲聴き入ってしまう稀有な存在。

安藤裕子の声は、曲によって、様々な表情をみせる。キュートだったり、キラキラしたり、少し怖かったり。また、リアリティあるのに抽象的な歌詞、声質と歌詞の世界にピッタリマッチしたアレンジ。

どうしても表現したい世界、空気があって、考え続けた結果、歌うしかない、そして、この声、この歌詞、このアレンジの組み合わせでなければならない...という強い必然性を感じる。だから、何度も聴いてしまうし、飽きる事がない。

で、トマソンだが、安藤裕子楽曲的なものが希少であるのに対し、世の中には、超芸術トマソン的なものが溢れているような気がする。

コブクロの感情移入たっぷりのリフレイン、秋川雅史の「千の風になって」、カラフルなパワーポイント、折れ線グラフの折れ線、大企業の稟議システムと無数の承認印、テレビに溢れかえる笑い...。

本来、”作成者が芸術と考えていない芸術=超芸術”であり、トマソンは、日常の中何の変哲もない風景の中から、鋭い視点で、意図無きアートを切り出したものであり、それ自体はユニークで希少性をもつ。何らかの美的価値が確かに在る。

ここで使っている、「トマソン的」なる言葉は、以前ブームになった概念とは、まるで違っていて、溢れかえり、過剰な厚化粧すら施されている。視る者の感覚は、麻痺してしまい、存在する意味を誰も疑問に思う事すらなく、存在し続け、肥大化していく。

工場には、基本的に物を創る機能以外の何物も存在しない。そこには、ある種の無駄の無い機能美が存在している。

その対極であり、「無用の長物」で飽和した世界に我々はいる。であるからこそ、様々なものを削ぎ落とし、必然性を有する何物かに、強く魅かれるのではないか...とちょっと大袈裟にいうと、そんな事を考えたりして。

2007年12月05日

疲労感なき疲労

昔と比較すると体力が落ちていると感じる時がある。

例えば、以前外資系企業に勤めている時は、海外出張が多かったのだが、年を追うごとに、時差ボケが深刻化した。最初は海外に行く事自体新鮮で嬉しかったりして、時差ボケって何?という感じだったのだが、最後のほうでは、月1回とか月2回のペースで行く破目になり、もうウンザリ。(毎回、ホテルに缶詰状態だし、コーヒーも煙草も不味いし、食べ物は脂っ濃いし)回復に4~5日必要だった。

二日酔いという現象も、よく名前だけは聞くが、意味がよく判りません...というのが若い頃。ここ数年は、深酒の翌朝は、必ず二度と酒は飲まないと神に誓う。

学生の時は、飲むと必ず朝まで...という歯止めが全く効かない、正確に言うと、歯止めをかける気持ちが全くない...並々ならぬ意気込みで真剣に?取り組んでいた。

地元で高校の同級生と飲みにいき、午後6時位から始めて、家路についたのが、翌日の昼12時なんていう記録も樹立した。途中で仮眠をとって、起きたらいきなり日本酒を飲む、実際余りうまくはないのだが、飲もうと思えば午前6時でも7時でも酒は飲めた。しかも、前日のオデンが肴だったりする。思い出すだけで、吐き気がする。

ろくに寝てもいないのに、その日の夕方には、また飲んでいたりと、誠に破天荒な生活をしていた時期。当時、俺は、自分がアル中になる、もしくは既に軽くアル中ではないかと、密かに小さな胸を痛めていたの。

遊びで徹夜なんてことは、よくあったし、全然へっちゃら。最近ちょっと続けて詰めて仕事をすると、後でどど~んと疲労感が押し寄せるときがあり、情けないよなあ俺...と日記に、青いインクで悲しみを綴る日々である。

今日の日経の夕刊に興味深い記事を発見。大阪市立大医学部教授の梶本氏によると、疲労感と疲労は、全く別物。

仕事をやっていると、集中力がドンドン増していって、気付いたら、雀がチュンチュン鳴いていることがよくある。そういう時は、気分がノッテいるので、全然疲れを感じない。また、重要な交渉の準備を入念に行い、最終的にこちらのイメージどおり終わった時など、達成感はあっても、疲労感はない。

これは単に、達成感が疲労を覆い隠しているだけで、ハードに働けば、それなりに人間は疲れるのが当たり前。疲れない方がおかしい。若い時、どれだけ滅茶苦茶な生活をしても疲れなかったのは、勿論体力もあるが、それだけ色々な刺激にビビッドに反応できる感性をもっていたということか。その精神の高揚が疲れを麻痺させていた。

ランナーズハイなども、同じ現象。土曜早朝ゴルフで突然死が多いのは、平日の激務による疲れを解放感が隠してしまう為。

ドリンク剤は、何と推定2600億円以上の市場らしいが、疲労予防・回復の謳い文句には、科学的根拠がないらしい。カフェインが眠気を覚まし、微量のアルコールが気分を高揚させて疲れが取れたかのように感じさせるが、「疲労感を除去」しているだけで、「疲労を軽減」しているわけではない。

高揚感、達成感、解放感、その他ドーパミン、アドレナリン大放出で、本当は疲れているのに、疲労感を感じない状態を続けると、どうなるかと言うと...死ぬ!!...確実に死ぬ...というのが結論。

自分が疲れている、ストレスが溜まっていると客観的に認識をするのは、とても難しい。客観的に、計測する方法としては、「パソコン画面に表れる数字を順に選び、反応時間の遅れを調べる」などの方法がある。この場合の疲労の定義は、「精神的・身体的な負荷がかかり作業効率が低下した状態」。

個人的には、こういう単純事務作業ではなくて、クリエイティビティに属する仕事に関しての効率(ってよぶべきかどうかは疑問だが、いわゆる質的な世界)は、ちょっと睡眠が足りず、刺激に対する感度が鋭敏で、かつ脳内物質の分泌が活発なくらいが、最高。 オフィスワーカーの多くは、そういう質的内容を求める業務に携わっているので、中々難しいところだ。それに、ランナーズハイの状態は、やはり気持ちがいいので、止められない。

死なない程度に、高揚感をもって働く...という微妙なラインかな...やはり狙うべきは。

更にややこしいのだが、「疲労なき疲労感」というのもある。肉体・精神ともに、全然余裕綽々の状態なのに、疲労感が強い状態。

これには、色々な説がある。ある研究報告によると、脳内で免疫物質が異常に作られると疲労感を強く生じるとのこと。 俺は人見知りするので、知らない人ばかりの立食パーティなどに参加するのは、行く前から憂鬱だし、出席すると直ぐにドロンパしたくなるのだが、そういうことなのかなあ?(いや、これは単なる我儘か?)

兎に角、疲労と疲労感は別物であるというのは、個人的には、かなり重要な発見をしたつもりでいる。どう、実生活に活かすかは、とても難しいが...

2007年12月04日

太田知事出馬断念の報について

誰でもお金は欲しい。無趣味で、CD、書籍代、飲み代が殆どの支出である俺にしたところで、それは同じで、余り奇麗事を言っても始まらない。

太田大阪府知事が、出馬を断念。

彼女は、元通産官僚の人脈をフル稼働させ、大阪の活性化に成果をあげてきた。本年7月末にはシャープ工場の誘致に成功、8月2日には関西国際空港の第2滑走路のオープン。シャープ工場は、堺市の大阪湾岸に誘致に成功。関空第2滑走路は、国に強く働きかけ、間に合わせた。大阪湾岸には、その他にも、三洋電機、住友電工、三井化学、宇部興産など大企業の研究施設・工場の立地を成功。

素晴らしいではないか?ただ...

2007年11月、2003年4月~2007年9月の期間に任意団体「関西企業経営懇談会」の会合に講師として招かれ、1回あたり50万~100万円の講演料を受領。5年間で総額883万円。府の公共事業の入札参加資格を持つ企業の経営者や、補助金交付団体の代表者もこの会には参加をしている。

2004年8月~2007年8月の期間に「太田房江を支える東京の会」は太田知事の母やおい宅を事務所として、事務所費を支出。

2007年11月20日、前述の「関西企業経営懇談会」主催の飲食会に公務で出席し、計981万円の謝礼を受領。会員企業30社のうち10社が2003~2007年度、大阪府から工事など計191件を約18億4500万円で受注。

政治家になると、お金の問題を起こすのか?元々、感覚が麻痺した人間が、政治家になるのか?本来まともな人間も、政治家になると、おかしくなるのか?それとも、政治家であるためには、こういう事をしなくてはならなくなるのか?

最もクリーンで志が高いことが要求される職種なのでは?すこぶるインテリジェンスも常識も高いはずなのに、講演料100万円、公務の謝礼金1000万円なんて、異常だと思わなかったのだろうか?

一般人は、皆政治家は、不正な手段でお金を儲けているという印象を持っている。そういう印象は、かなり固定化している。また、カネがないと選挙には勝てない...という話も、そうかもしれないと思ってしまう。

政治家は、清貧、無私であるべき...という事自体が既に幻想? 高い志を要求するのは、有権者のエゴなのか?彼らは、非常に賭博性と違法性の高そうな錬金術に携わる自由業者とみなすほうが、マトモなのか?

一番ヤバソウな感じの仕事が、政治家っていうのは、倒錯しているし、異常でしょ、やっぱり。いや、普通なの? マジに考えると、ホントによく判らない。こういう事を、問題視する俺が、ガキなだけなの?

社会っていうものは、そういうものなの?永遠の14歳には、現実は複雑怪奇で、よくわからない。

2007年12月03日

鎌倉散策その2、師走

別に毎週、鎌倉散策しようと思ったわけではないのだが、本日も3時間くらいウォーキング。

駅から徒歩5分で、妙本寺へ。 北条氏に滅ぼされた比企氏の本拠地で、比企谷というらしい。生き残った一族が日蓮宗のお寺を建立。

大きな門を通り過ぎると、ちょっと傾斜した太い道が真っ直ぐ...。両脇に、幼稚園、普通の住宅、貸しギャラリーなどが建っている。

ギャラリーで、趣味の良いカレンダーを買い、緩やかに続く坂を登る。少し歩くと、駅・小町通周辺の喧騒とは別世界。様々な種類の紅葉と、よく名前はわからないが落葉樹で構成された鬱蒼とした林。歩くだけで、健康によさそう。

紅葉と言っても、緑、黄、赤、真紅、夫々のグラデーション...バリエーションが豊富。そこに、日の光が差し込むと、更に複雑な光彩を放つ。紅葉を見上げたまま、しばし言葉を失う。駅から、僅か徒歩5分で、こんな異空間が広がるとは...10年も住んでいて全く知らなかった。

昇殿し、借景になっている山のほうへ回ってみると、落ち葉が絶え間なく振り続けている。黄の葉が、風に吹かれて、フワフワ舞う情景は、幾ら見ていても飽きない。マーメイド曰く「流石、落葉樹だ」 表現は変だが、妙に納得する。「うん、流石、落葉樹だ」

妙本寺から、だらだらと海の方向へ。材木座に。真っ白な猫が魚屋のテーブルに、ちょこんと座っている。魚屋なので、横に当然魚が並んでいるのだが、満ち足りているのか、一瞥もくれず。ただ、前をつぶらな瞳で見つめている。西に傾きはじめた陽の光を浴びて、右目と左目の色が微妙に違って見える。「置物みたいだね」「うん、置物みたいだ」

この頃になると、二人とも、かなりバテ気味。既に5~6KMは歩いている。お洒落な喫茶店で、ティータイムにしたいのだが、材木座は、ひたすら庶民的で、生活直結型のお店しかない。エンジェルが言う「下関の寂れた海岸みたい」 「おい、おい、寂れた...は余計でしょ」

海に着く。砂浜には、案外多くの人が居て、静かに時を過ごしている。180度のパノラマ。ウィンドサーフィンの色とりどりの帆が、滑るように進む。陽は更に傾いて海面に光の道を創る。久しぶりに海を見た。

もう師走。今年も残りあと僅か。うまくいかなかったこと、反省すべき事、残念な事は、沢山ある。1年365日の区切りがなかったら、俺は、巨大な積み残し懸案事項に、とうに押しつぶされているところだ。

そう1年経てば、前年に何があっても全てチャラ。1月1日から、また新しく生まれ変るのだ。周囲の人間が戸惑うことがあっても、去年の件ですけど...と言われても、全て知らぬ存ぜぬで押し通すぞ。何せ、生まれ変わるのだから、都合の悪い記憶は全て消去あるのみ。俺有利な話は決して忘れはしない...というセレクティブなポリシーを貫くのだ。

海に引き寄せられるように、あれよあれよと、人魚形に変身をしたエンジェルをよそに、俺は褌一丁になり、高笑いをしながら、和太鼓を打つ、打つ、なおも打つ...そして海に向かって絶叫...「さようなら2007年、来年は北京で会おうぜ!!」


2007年12月02日

心が疲れているときは...

安藤美姫の表情がアップで映し出される。

自信と緊張...というより不安、迷い、疲労を感じさせる。やばそう?と思ったが、案の定、三回転倒で4位。

体が疲れていると、精神も疲れているし、判断力は落ちる。安藤選手はコーチに、三回転~三回転のジャンプを三回転~二回転に変更しようと言われたが、不安なまま三回転~三回転にトライし、転倒してしまった。原因としては、ビールマンスピンができないほど肩を痛めていること、その他肉体・精神面の疲労などなど。

別に、俺は三回転ジャンプやビールマンスピンをオフィスで披露しているわけではないが、睡眠不足蓄積疲労新垣結衣熱烈歓迎判断低下椿三十郎思考停止...という状態に陥っている。こういうときは、常に前向きでダンディな俺も、ネガティブな思考になりがちだ。

肉体と比較すると、精神の疲れや歪みは、自分でも気付かないことが多いし、何がどう影響するのかは予測がつかないので、厄介だ。

兎に角、今日は何かを考えようとすると、色々な感情が雑多に押し寄せ、正常に判断できない...という状態。気分転換に、夜のお散歩へ。

夜の冷たい空気は澄んでいてとても気持ちがよい。ふと見上げると、遠く丘の上にあるマンションの窓の電飾が綺麗に点滅している...。

バブルの恩恵を唯一受けたのが、企業派遣で大学院に行けたこと。更に、その大学からアメリカの大学に一学期間交換留学できたこと。今から16年前の冬、俺と家族は、ニューヨーク州のトロイという小さく、寂れた町にいた。

ある夜、実家の姉から電話。祖母が死んだことを告げられた。俺達姉弟は、祖母に特別可愛がられ、物心両面で、言葉で表現することは不可能なほどお世話になっている。この世で、最もいの一番で通夜・葬儀に駆けつけるべき人間は、間違いなく俺だ。
「お前は、戻ってこなくてよい」と早口で喋ると唐突に電話は切れた。いつも、この人は、説明不足だ。説明されなくても、わかるのは弟だけだ。

トロイの人達は、クリスマスのかなり前から、家々で、様々なイルミネーションを飾る。窓、犬小屋、屋根、玄関など、様々な場所に電飾が施される。アパートの窓から、電飾が綺麗に、点滅するのが見える。

気付いたら、泣いていた。静かに、長い間、泣き続けた。悲しくはない~不思議な事だが~でも涙は止まらないのだった。

遠くに見える電球の点滅を見ながら、16年前のことを久しぶりに思い出した。疲れ気味の心が、少しづつ暖かく潤っていくのを感じた。

2007年12月01日

習うこともなく、慣れる事も無く、ただ血の導くままに

習うより慣れろなんてことを言うが、経験は大切。

何事においても、最初は上手く行かないが、経験を積むにつれて上達するもの。

先日、マーメイドと話しをしていて、はっと気付く。子育てというのは、常に未経験で、前述のような慣れが無い。18歳の娘と15歳の息子がいるが、勿論、18歳の娘をもつのも、15歳の息子をもつのも初めて。来年になれば、夫々19歳と16歳になるが、19歳の娘をもつのも16歳の息子をもつのも初体験だ。

子供は成人するまで、体も心も激しく変化する。また、個人差異、男女差異も大きい。よって、「親」をするということは、常に未体験ゾーンに突入し続けることを意味する。

俺の場合は、もう一つハンディキャップがある。

父親は、船乗りで、遠洋漁業に出ていて家を空けることが多かったし、早く亡くなったので、一緒に住んだ期間は極めて短い。実質母子家庭に等しい。

つまり、父親が家に居なかったので、父親らしい振る舞いってどんなものだか、全くイメージが沸かないのだ。普通の家庭に育っていれば、父親の立ち居振る舞いなどを幼い頃からみているので、割と自然に父親としてやるべき事についてイメージが湧くに違いない。

俺の場合は、経験とロールモデルが共に欠如している状態。真っ暗闇の中を、灯りをもたずに歩くようだ。 自分が適切に彼と彼女に接しているかについては、全く自信がない。

父であるという俺は、元々の俺と同じでいいのか?それとも、父親としての別の人格が要求されるのか?俺は、自然と子供と接する時には父親へと変身するのか?それとも、かなりの意志・努力の力をもって、父親としてあるべき姿になるべきなのか?その場合、「父親としてあるべき姿」って何なのか?
バーベキューを仕切ったり、キャンプに行ってテントを張ったりする事なのか?

考えても、わかりゃしないので、かなり前に本件はギブアップした。

結びつき自体も、極めて特殊なんだなあ。考えてみれば、別に友達でも、上司部下でも、師匠と弟子でも、フリーメイソンの会員同士でもない。血が繋がっているだけっていう関係なのだ。

独身の時、子供が大嫌いであった俺が、自分のことでもないのに、我が子可愛さ、自然と体が動く。悩んだり、考え込んだり、落ち込んだり、喜んだり...。予想外の展開に驚く。

血に導かれるまま、その折々で、どうすべきか、何をすべきか、脳髄振り絞って考え、実行するのみ。

娘や息子にとって、そんな、ちょっと熱くてキュートな俺はどう見えているのだろう? 聞いてみたいけど、怖くて聞けない。聞くシチュエーションなどないし...ともじもじしているのだった。