捕鯨を巡る冒険
俺の生まれ故郷である下関は、昔から鯨と縁が深い。
俺が住んでいたのは、本州最西端下関本土から、更に離れた彦島という断崖絶壁の孤島。
幼いとき、俺は、約5尺の銛を抱えて、鯨と格闘する日々を送っていた。獲れた鯨は、刃渡り10Mの大きな包丁で、アチョ~、気合一閃、母親が三枚におろす。鯨が獲れた晩は、村の中心にかがり火がたかれ、その周りを島民が踊り狂うのだ。遠くに外国船の霧笛が聞こえる…。
日本有数の捕鯨基地であった下関。俺の父親は船乗りで、ベーリング海でスケソウダラ、南米沖でカタクチイワシを獲っていて、鯨とは縁がないのだが、父親の同期には、捕鯨船の砲手もいる。元捕鯨船乗組員もかなり暮らしている、捕鯨については特別な街だ。下関発祥の「マルハ」は,元々大洋漁業という名前で、保有していたプロ野球球団に、「ホエールズ」(左門豊作も所属。現横浜ベイスターズ)と名付けた。その準根拠地は、下関球場。
この捕鯨の聖地ともいうべき街にある市立大に、昨日、全国の大学で初となる鯨資料室がオープンした。鯨産業に携わった会社、関係者の資料が散逸しないよう収集し、情報発信基地となる目論見。また、昨日、オーストラリア野党の報道官が、日本の調査捕鯨船を監視するため、軍が出動すべしと発言したという物騒なニュースも飛び込んできている。
小学生低学年の頃、給食で鯨の南蛮揚げがやたらでてくるし、そういうときに限って、夕食のメニューも鯨だったりして、もう鯨はそれ位にしとけよ…という幸福な時代があった。どの魚屋にも、縁が紅に着色された巨大な鯨の脂身が、ド~ンと陳列されていた。
鯨が、ある時点からパッタリ食卓から消え、既に数十年経過した。 大学の資料室が収集、管理しなければ、鯨を獲り、日常的に食していた「暮らしの痕跡」すら喪失してしまうかもしれない位長い時が流れたことを改めて実感する。(昨年の正月に久しぶりに、鯨のベーコンを食する機会を得たが、何とも言えず美味しかった。子供の頃、もっと食べておけばよかったと後悔の涙にくれるばかりじゃ。)
何故鯨が、我々の日常から姿を消し、調査捕鯨船監視に軍の出動などという話になるのか? 鯨を取り巻く状況って一体今どうなっているのか?
ご存知のように、世界的に反捕鯨の動きは高まっている。日本、ノルウェーなどを除けば、殆どの国は反捕鯨国。 ただ、反捕鯨の論拠については、案外知っているようで、良く知らない...ってことに気付く。
ウィキペディアの捕鯨問題当該項目によれば...。
「資源としてのクジラ」という考え方がある。
捕鯨推進派はクジラを有効利用することや鯨の過剰増加による他の漁業資源の減少を避けるための必要性(鯨食害論)を説く。しかるに、反対派はクジラ資源の枯渇を訴える。
実際、鯨は減少しているのか、増加しているのか?そ、そんなベーシックな事象にも、共通の事実認識がない...という悲劇的(いや喜劇的か)状況。
また、「自然保護問題としてのクジラ」という考え。
これについても、片や「漁業による海洋の過剰搾取の問題」、片や「海洋の状況悪化による問題」と譲らない。どういうこっちゃ。
海洋の過剰搾取問題…。
過剰搾取問題は、「人間による捕鯨を含む漁業によって海洋生態系が撹乱されている」という観点から「過剰搾取・過剰漁獲のシンボル」として捕鯨を否定する流れ。
逆に、鯨食害論という、鯨のみを保護する事によって海洋生態系に悪影響を与えるという主張も。
過剰な保護も過剰な漁獲も、海洋生態系には悪いはずなので、ブラック&ホワイトの話しになるのは、不思議。
最もエキセントリックなのは、「知的生物としてのクジラ」を巡る議論。
クジラの巨大な脳容積や、音波によって同族間の緊密なコミュニケーションをとっているらしいこと、ヒトと同起源の哺乳類である事を挙げて、「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と主張する。だが、よく考えれば、「知能」とは一体何なのか?食べるか、食べないかという基準にすべきものなのか?豚、牛、馬、鳥は食べてよくて、鯨は駄目だという境界線は何か?という、どの問いにも、充分な回答はなさそう。この論は、余りに情緒的、感覚的なので国際会議で声高に述べる人はいないが、考え方のベースとしては、かなり根強いものがある...らしい。
文化論として捕鯨を捉えるという観点もある。
元々、クジラを食料として捕獲してきた捕鯨国には鯨を食してきた長い歴史があり、それを食文化の一部という主張がある。これに対し、反捕鯨国には鯨を食する習慣がない、もしくは喪失している。
鯨を食物としてみるか、保護すべき珍獣とみるべきかは、こうなると、もはや相互の「べき論」とも理解を得ることは困難、どこまで行っても噛み合わない議論が続くことになる。
様々な論点があるが、絶望的なまでに平行線で、交わる所がない。議論が始まって以来数十年間、捕鯨国日本は常に劣勢。先進国首脳会議参加国で、捕鯨賛成国は日本だけ。議論は、ともすれば客観的、科学的なものから、感情的、情緒的なものに流れる傾向にある。
こうやって考えると、鯨の問題は、鯨だけの問題ではないのかもしれない...と思い至る。
日本は、海千山千の欧米諸国と渡り合って、相反する利害を調整し、国益を守るというノウハウが決定的に欠如している。
世界ナンバー2の経済大国でありながら、政治力、外交力には乏しく、国際政治の表舞台で活躍することは稀。日本のムラ社会での駆け引きは得意だが、日本の外で通用する交渉力、ロビーイング力はない。正しい事を主張しているかもしれないが、状況打開には、何の効果もない。鼻から先方は、戦略的に結果を得ようとしているので、書生論など一蹴される。喧伝されている、日本特殊論なども、欧米諸国からのプロパガンダで、彼らに都合のよい方向に、日本人はマインドコントロールされているのではないか。
俺達が、腹いっぱい鯨が食えなくなったり、大正海老が忽然と姿を消したり、浜口京子が負けたり、ジャンプスキーの板の長さに制限が加わったり、複合の評価ポイントが変わったり、柔道のルールが複雑になったり...するのは、日本人の主張が間違っていたり、元々特殊な考え方をする民族だったり、キリスト教の信者が少なかったり、カメラを首から提げていたり、出っ歯で眼鏡をかけていたり、英語が苦手だったりする...からではない(というか、そんなことは全く関係がない)
要は、パワーゲームのスキルの差ではないのか?
このままでは、永久に腹いっぱい鯨を食べる日は、訪れそうもない。やっぱり、昔、死ぬほど食べておけばよかったっちゃ。


コメント
esnabihy izlhekxy eyhptlm zbahxtlrj mbskie xahbpyd qidjh
投稿者: ptgd njugq | 2007年12月06日 23:02
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投稿者: ptgd njugq | 2007年12月06日 23:05