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2007年07月29日

小市民の週末

参院選では、自民党の歴史的敗北。タリバンによる韓国人誘拐。阪神7連勝ならず...など、色々大きなことが起こっているのだが、小市民代表である、我が家でも、ちょっとしたスケールの小さな驚きが...。

昨日は、俺の誕生日祝いで、家族で近くの鮨屋へ。

行く度に、新しい驚きを我々に与えてくれる近所の鮨屋で、またまた驚異の鮨が登場。

鰹というと、たたき...というのが定番だが...。
鰹を軽くあぶって、凄く柔らかいソースに浸し、その上にカリカリに焼いたニンニクを、細かく砕いたものをのせ、下に大量のミョウガを敷き、一緒にいただく。ニンニクの風味が、何とも言えず鰹にピッタリフィットして、美味い。

次は、イカ。短冊状に切った、イカの刺身に、バジルのソース。もう、鮨の領域は、はるかに超えているが、何とも甘辛く、爽やかな風味が、口の中に広がる。

小鰯の刺身の上には、玉葱に何か色々な香辛料が合わさった複雑な味のソースがかかっている。え~こんな味がするの~って感じ。

イサキの握りでは、スダチと何か色々なものが入ったソースがかかっていて、口の中に入れると一瞬で溶けてなくなった。

行くと必ず、注文するカモの握り、軽くあぶって、岩塩とスダチのソースがかかっているタコなどなどの、我が家にとっては定番料理を、食べたあと、手羽先を頼む(ここは、あくまでも鮨屋である)。備長炭で、しっかり焼き、絶妙な塩加減の手羽先は、大抵の焼き鳥屋が裸足で逃げるくらいの、美味さ。カリカリに焼いてある皮とジューシーに鶏肉のコントラストに、酔いしれてしまった。

娘からは、彼女のお気に入りの曲を選んだMDをプレゼントでもらった。

Def Tech, Daniel Powter, Journey, The Clash, J.D.Souther, Wham...など、ジャンルも時代も、バラバラで、へぇ~こんな曲を聴くのか?と正直驚いたし、父親のツボを見事についた選曲にもちょっとビビッた。Journey, The Clash, J.D.Souther, Whamなんて、数十年振りに聴いたけど、とても新鮮。(CM曲なんでしょうか?)

息子の方は、Queenのことが好きで、俺のCDラックから録って聞いているらしい。彼は、クラシック好きな坊主頭の野球少年という、ちょっとイメージが違う感じなのだが、クイーンに、そこはかとなく漂うクラシカルな感じが、アピールするのかしら??

鮨屋で、美味いものを食べながら家族で色々話したのだが、気付けば、娘は18歳、息子は14歳になっている。45歳になったのは、どうにもこうにも受け入れ難い事実ではあるが、この事実を受け入れないと、娘と息子の背が既にマーメイドを追い越し、俺もそのうち追い越すであろう事実との辻褄があわないわけだ。

疲労の極で迎えた週末だったが、とてもゆっくりできた。仕事など、色々とじっくり考えるべきことは山積みだが、明日から一つづつ丁寧に取り扱おうという気になってきたのは、いい傾向。

2007年07月27日

サッカー日本代表に思う

これまで生きてきて、色々な組織(学校、クラブ、小企業、中企業、大企業など)に所属をし、色々な人にあってきた。


その割と、限られた経験で言うと、日本人(正確に言うと日本にある組織に属する人)には、幾つかの特徴がある。

目立つことはしない。何か、自分では決めたくない。責任は、回避したい。ミスをすること、孤立することを何よりも恐れる。誰かに指示して欲しい。

昨日のアジアカップをみていて、日本代表は、紛れもなく「日本」を代表している...と痛感した。

サッカーというのは、非常に点が入りにくいスポーツである。つまり、シュートの殆どが失敗するという性格のゲームだ。また、11人もメンバーがいて、攻撃、守備など、動きはルール上制約されていない。よって、誰でもボールを持つと、その他の10人の誰かに対してパスをだすか、ドリブルしてシュートをうつかという、大まかに言って11通りのオプションをもつ。

つまり、選手は、数多いオプションの中から瞬時に、一つの案を選択し、実行しなければならない。そして全てのオプションの中で、シュートの成功率が一番低い。

小さいときから、目立たない、責任を回避したい、ミスをしない、孤立しない、周囲から浮きたくない、何かを決めたくない…というスタイルで育ち、減点主義が横行する各種組織の暗黙の了解・奨励をうけ続けて、ある種の行動パターンが染み付いている日本人にとって、サッカーは決定的に向いていないスポーツではないか。迷った挙句、敵にパスしたりするパターンを何度見たことか?

私なりのこだわり、私らしさ…など自らの個性を尊重したいという風潮や、がちがちに決まったことではなく、ある程度自由にやれる職場環境を求めたりする若者の声を、マスコミや職場で見聞きすることもあるには、ある。

その他大勢に埋没することをよしとする「個性」、物事を決めたり、責任をとることを回避したい人間が求める「自由」。大いなる矛盾だ。気温30度、湿度71%で、枠の中にボールを蹴りこむためには、紛い物の個性など何の役にも立たない。勿論それ以外の緊迫したいかなるシチュエーションでも、無力だ。

昨日のアジアカップでは、日本代表は、点を取られた直後、急にアグレッシブに攻めはじめ得点するというパターンを繰り返した。これも、なんと「日本」を代表していることか...

・外圧がないとセルフスタートができない
・実は、その気になれば能力は高い。ただ、中々その気にならない。永遠に、その気にならない人間がマジョリティだ

試合前には、ミドルシュートを打つといっていたのに、前半はゼロ...って、泣けてきた。

とにかく、ゴールが見えて、シュートコースが空けば、躊躇わずにシュートを打て。
ゴールが見えず、シュートコースもふさがれていたら、シュートを打てる所まで、ドリブルで行け。
それが出来ないのであれば、隅で草むしりでもしていろ。

(母親を探す子供みたいに、俊輔と遠藤を探し、ボールを渡して安心する...ってのは止めてくれ)
(駒野だけは、シュートは打たなくてもいい、俺が許す。頼むから止めてくれ)

サウジの2人のフォワードには、「何が何でも俺がシュートを決める」という強靭な意志を感じた。この強靭な意志があって、はじめて個性的、創造的であることができ、自由を楽しむことができる...んじゃないだろうか?

昨日の試合は、悪い意味で「日本」的な何物かの典型だ。しかし、悪いことだけではなく、何か新しいものの萌芽を感じたのも事実。
中澤の強烈なヘッド、阿部のキャプテン翼みたいなオーバーヘッド、最後のコーナーキックの際、攻撃に参加した川口など、失点の責任を背負い、自らの力で取り返そうとしたディフェンス陣は、尋常ではないいい面構えをしていた。

幕末、新しい時代を作った若者達の写真をみると、ハットするほど、目つきが鋭く、たじろぐほど精悍な顔をしている。繰り返して述べている日本人の特徴も、実は「戦後」という時代に出現した一過性のもので、日本人の本質は、もしかするとサッカーに向いているのかもしれない。

日本がサッカーの強国になる時、それは新しいタイプの日本人が数多く、社会の色々な所で活躍している時代だ。そして、それは、そんなに遠い日ではないことを信じている。

2007年07月24日

誕生日を迎えて

信じられない事はある。事実を突きつけられても、道理を説かれても、足の裏をくすぐられても、受け入れ難いことがある。

7月24日は、誕生日で、何と45歳になってしまった。毎年、誕生日になると思う。そんなの嘘だ、何か間違っていると。テレビで、疲れたサラリーマンが映る、何かオジサンっぽくて嫌だなあと思うと。テロップに、「大前田権佐衛門さん(42歳)」。年下じゃん。凶悪犯の顔写真、なんか老けてるなあ、年齢をよくみると、38歳。年下じゃん。

俺は、自慢ではないが、永遠の14歳と言われている。(厳密に言うと、正確には、「(自分で)そう言っている」...まあどちらでもいい事だが)基本形としては、殆ど14歳以降変化をしていない。多少、精神的にタフで、大胆な開き直りが可能になったくらいで、変化といっても誤差の範囲だと思っている...。

先日の日経夕刊に郷土のニュースが掲載されていた。明治時代に、下関は国際港として隆盛を極めたのだが、その当時に建設された洋館が、未だに現存し、町の中にしっくり溶け込んでいる風景についてのレポートであった。
秋田商会という建物がある。レンガ造りで、典型的な洋風の建物なのだが、何と二階は畳、屋上には和式の庭園があるという、究極の和洋折衷。小さいときから、見慣れているので、何とも思ったことはなかったのだが、新聞に掲載された写真をみると、ちょっと粋な感じ。

旧英国大使館は、俺が小学校の時には、「考古館」という博物館で、日帰り遠足のコースであった。今回、初めて知ったのだが、アーネストサトウの奔走の結果、建設されたとのこと。赤レンガの二階の窓から関門海峡が綺麗に見える。前には、魚市場、横には八幡宮。

掲載されている写真をみて、幼いときのオボロゲな記憶が、また急に蘇った。
その当時、俺は長府という嘗ての城下町に住んでいた。緑にあふれ、土塀の武家屋敷が立ち並ぶ、大変静かで美しい町である。町の中央には、壇具川という小さな川が流れており、上流には、水車がある。川には、鯉が泳ぎ、夏には蛍が舞う。高杉晋作が、回転義挙の兵をあげたのも、乃木稀介が幼少時代を過ごしたのもこの町である。(以前も書いたが)、レンゲ畑に、ボールが入ったらホームランというルールで、よく野球をして遊んでいた。

ある夏の日、友達と遊んでいるうちに、道に迷ってしまい、いつしかかなり山奥まで来てしまっていた。真夏の日差しも傾き始め、非常に心細くなってきた。どちらの方向にいけば、家に帰り着くのか、さっぱりわからない。とにかく歩を進めると、ドンドン森の中に入っていって、薄暗くなってきた。座り込みそうになったその時、視界が急に開けた。

視界に飛び込んできたのは、小学校の運動場くらいの芝生と、その一角に聳え立つ、古色蒼然としたレンガ造りの洋館であった。二階建てで、ツタの絡まったバルコニーがあった。蝙蝠が飛んだり、吸血鬼がでたりというような、おどろおどろしいことはまるでなく、涼しげな風を感じた。同い年くらいの少年がこちらをみている。睫毛が長く、白い服を着た彼は、同じ小学校の同級生で、そこに住んでいるのだという。芝生で、二人でひとしきり遊んだ…。俺の記憶は、そこで、ぷっつり途切れている。

芝生で遊んだ後、どうやって家に帰り着いたのか、友達の名前、洋館の位置など、よく思い出せない。後に調べてみると、急速に欧米化をすすめた国際港下関の丘陵には、その当時建造された本格的な洋館が点在することがわかった。多くの建造物は、現在では主をなくし、荒れるに任せていたり、壊されてたりしている。

あれから、数回、薄ぼんやりとした記憶を頼りに「思い出の洋館」を探してみたが、未だに、糸口すら見つからない。この話しをすると、母親からは、そんな洋館はしらないけど?といわれる。最近では、あの記憶自体が、空想の産物だったのかもしれない...と思う事もある。

でもツタの絡まった洋館、広がる鮮やかな芝生、薄暗い森のちょっと湿った空気、山の匂い、見上げた時の夕陽の色...体に残った感覚は、やけにビビッドでリアルだ。やっぱり、洋館はあったし、同級生もいたのだ...そんな風に思う。

あれが、空想の産物だということは、自分が45歳でいること以上に、受け入れ難い。何故なら、真夏に生を受けた俺の、最も美しい夏の日の記憶だから...

2007年07月23日

中国に関する最近のニュースについて

中国に関する最近のニュースについて、ざっと目を通してみた。

<ダンボール入り肉まん>
中国国内メディアが報じた段ボール入り肉まん報道について中国政府はねつ造であったと発表したが、多くの国民は政府の発表を信じていないと、国営新華社通信(Xinhua news agency)が21日、伝えた。

常識的に言えば、ダンボールが入った肉まんのほうが、「え~嘘だろ」という反応だと思うのだが、ダンボール入り肉まんが捏造という報道の方を、「え~嘘だろ」とマジョリティが感じる社会って、一体どうなんだろう。

<食の安全>
中国政府はこの7月20日に、食品の衛生や安全基準に問題がある製品に携わった企業に厳しい処分を科したと伝えた。また、有害物質が混入したペットフードの販売にかかわった2社、歯磨き粉の製造会社1社を閉鎖したと発表した。
米国消費者は、中国、インドなどの途上国製品へ強い不信感を示しており、不信感の内訳をみると、玩具で48%、衛生用品で55%、医薬品で63%、薬草・栄養補助食品で64%、加工食品で61%に達する。

つまり、国内外の人が、「食品の衛生や安全性」に殆ど信用がもてないと言っているわけだ。食べ物って、生存するために必須でベーシックなものだから、とても深刻だ。

<知的所有権1>
世界税関機構などがまとめた資料によると、全世界での模倣品・海賊版の取引額は、なんと推計81兆円(2005年)で、これらの多くは「まず中国で作られたと疑われる」と日本貿易振興機構(JETRO)が指摘している。
中国の大規模な卸売市場には各国から一日に十数万人ものバイヤーが集まり、安価な違法コピー品を買い付け、これらが内陸部のウルムチなどを経由して南アジアや東欧諸国へ向かうルートや、海路で中東へ向かうルートで輸出されているという疑いがあるらしい。アラブ首長国連邦(UAE)のドバイには、中国製品を専門に取り扱う卸売りデパートが存在し、中国の模倣品がドバイを経由してアフリカや南米に流れている可能性が高いという。

世界貿易機関(WTO)に未加盟の国が多い、アフリカや中東欧諸国では権利関係の法律や摘発体制が未整備で、模倣品や海賊版が出回っても打つ手がなく、被害を回復できないのが実情とのこと。

WTOに加盟している中国が、これを商慣習の違いということはできないだろう。末端の業者は、何か罪悪感を感じながら、模倣品や海賊版を販売しているんだろうか。6年前上海に行った時、ショッピングモールらしき場所に模倣品や海賊版が、山と積まれている景色をみて言葉を失ったことがあるが、その状況はどれだけ改善したのだろう?

<知的所有権2>
「ディズニーランドそっくり」と指摘されていた「石景山遊楽園」が施設やイラストの大半を変更した。海外で報道され、米ウォルト・ディズニー社からも抗議を受けたことに対応したようだ。同園は「白雪姫」そっくりの大型人形を撤去。遊具に描かれていた「ピーターパン」や「人魚姫」のイラストも別のものに差し替えた。パンフレットにあった「ディズニーは遠いので石景山遊楽園に行こう」というキャッチフレーズはペンで消され、ミッキーマウス似のキャラクターもパレードから姿を消した。
しかし、園中央の「シンデレラ城」はそのまま。ディズニーのイラストを消した遊具に今度は「美少女戦士セーラームーン」など日本の人気アニメそっくりの絵柄。

このディズニーは何か言われたので消すけど、セーラームーンなら、問題ないだろうということなのだろうか?ドラえもんやキティの出来損ないは?

<奴隷工場>
拉致された子どもや出稼ぎ労働者らがれんが工場で過酷な労働を強いられていた事件にからみ、中国共産党の山西省規律委員会は16日、党や政府の規律に違反して事態を放置していたとして、同省運城市や洪洞県などの党員や公務員計95人に対し、党籍剥奪(はくだつ)や職務解任などの処分を行うと発表した。

子供や出稼ぎ労働者を拉致して、奴隷のように働かせるということは、紛れもなく犯罪だが、共産党員や公務員が、これらに関与している、(というか)主導的な役割を果たしている社会というのは、どういう事なのだろう

上記、列挙した報道は、全て僅かこの一ヶ月足らずで起こったことばかりであり、どれも、驚くばかりで、共感や理解の範囲外。何か、楽にお金儲けできれば、何をしても良い、手段を問わない...という拝金主義が横行しているような印象を受ける。

営利企業は、利益極大化をし、株主価値を高めるのが、最重要課題の一つであることは、いうまでもない。儲けなければ、従業員に給与は払えないし、会社を存続することは難しい。そういう意味では、企業経営には、かなり地道で泥臭い努力が必要とされる。奇麗事ではない。が、とは言っても、企業として守らなくてはいけないルールがある。人に人格があるように、企業にも品格がある。遵守すべきかどうかの線は、法律に抵触するかどうかの線より、かなり厳しく引かれるべきである。
上述報道されているような中国企業には、このラインが、かなり甘く引かれている、もしくはラインそのものがない...ということか。

もう一つ、企業というものの原則は、ゴーイングコンサーン。ゴーイングコンサーン(Going Concern)とは、企業会計の言葉で「企業活動は永遠に続く」と仮定すること。この仮定のバックにある基本コンセプトは、「企業は継続し続ける社会的責任がある」ということである。

ディズニーを模倣し、ブランド物を模倣し、批判があれば止め、また違う海賊版を作るという商売は、刹那的であり、一時しのぎであり、投機的である。ゴーイングコンサーンという、企業会計上ベーシックな仮定条件は、中国企業経営者には認識されているのか?

ガバナンスもゴーイングコンサーンも現行会計諸制度も、全て欧米的な企業経営についての根幹をなす考え方であり、こういう基本的な考え方をシェアすることを前提にして、様々な秩序が成り立っているというのが、グローバルエコノミーのあり方(これには、欧米一辺倒のルール決めに批判的な向きもあるかもしれないが)。世界有数の軍事国家であり、経済大国であり、大きな影響力をもつ中国が、異質なルール(経済観?)で実際のところは動いていることに、非常に大きな懸念を覚える。

2007年07月22日

竹内まりやの新しいCDを買ってしまった私

やけに涼しく、眠ってばかりいる。体力も気力も衰えがちな週末、皆様はいかがお過ごしでしょうか?

やることは、山ほどあるのだが、何にもしたくない、無気力な俺は、家庭内でもオブジェのように、静物化しながら、きな粉餅などをムシャムシャ食べている。その不動の姿勢が神々しいまでの輝きを放っている。

竹内まりやの新しいアルバム「DENIM」を買う。最初の曲を聴きながら、俺は、何故このCDを買ったのだろう?と深い疑問の海に沈みこんでいった。(というほどの話ではないが)

いつものメロディ、誰が聴いても、一発で達郎とわかるアレンジとバックコーラス...もうここ20年は、全く変わっていない。10年一昔とかいうし、世の中は、大きく動いているというのに...。

今回もまた、この夫婦の手玉にとられて、CD購入に至った俺は思うのだった~彼女の(もしくは達郎)のCDを思わず買ってしまう、かなり大勢の人のメンタリティとは何か?以下は、俺の思索の旅の記録でア~ル。

何も刺激的だったり、興奮させられたり、実験的な試みなどがされているわけではない。何か常に新しい刺激を求めるアグレッシブで前向きな人には、竹内まりやのCDは、全く必要ない。

「読まれないこの手紙 それでも書かせて」「あなたと引き合う気持ちはシンクロニシティ」「好きになるほど大切なもの 失くす予感におびえたから」「覚えてる二人のハートのビートがそろわない」「誰にも同じように優しいあの人だから 離れてるといつも心配」「恋と呼べば甘すぎるわ 愛と呼べば重すぎるわ」

以上は,本アルバム各曲の歌詞抜粋。「何が、愛と呼べば重すぎる...じゃ」と簡単に批判する事なかれ。52歳になった彼女が、20数年前から何も変わらず、女子大生のまま、正確に言うと一昔前の女子大生のまま...というのは、本当に凄くないか。(現在の女子大生が、こんなにウェットな感覚なのかどうかは、不明)

そこに広がる世界は、恋愛1(ハッピー)、恋愛2(アンハッピー)、恋愛3(不倫)+α(女性同士の友情だったり、海外の曲のカバーだったり)という、ラブソングの王道。

彼女の曲は、実際とてもよく似ている。その原因は、勿論達郎のアレンジが、もろ達郎だからと言うのもあるが、音域が狭いので、曲のバリエーションが限定されることも大きい。

凄く、極端に言えば、いつものメロディ+いつものアレンジに、恋愛3パターンの何れかを組み合わせると、お手軽竹内まりやが出来上がるということになる。

で、何故彼女のCDを買うか?だが、このパターンの固定が最重要ファクターではないかと思うのである。後ろ向きで、昔のことをくよくよ考えたり、過去の恋愛を引きずっている、嘗て若かった層にとって、竹内まりやは、昔のことを思い出し、癒しを与えてくれる、とてもリスクの少ないツールなのではないかしら。彼女は、決して裏切らないし、どういうパターンの恋愛であっても見事にカバーしてくれる。

彼女のCDを聴いた後、何故か「私も頑張らなくっちゃ」などと独り言をいいながら、お風呂に入るF2層というのは、かなり多いのではないかと推察する、根拠はないけど。

もう一つの重要なファクターが、音域はせまく、美声ではないが、落ち着いた深みのある声質。彼女の声は、アイドル時代の「戻っておいで私の時間」「不思議なピーチパイ」だと妙に無理な感じがある。やはり、「駅」「告白」などのディープな曲を、いやらしくならない程度に、しっとり唄うのに最適。

つまり、歌詞、曲、アレンジなどがある程度類型化、固定化されており、あるセグメントのニーズに、常にかなりの顧客満足度で応えることが出来るため、ユーザーは、安心して毎回購入するってことでは。牛ミンチとパッケージに書いてあるのに、実は豚でした...というようなことは決してない。

夜、独りの部屋、雨、少々のアルコール...よっしゃ竹内まりや聴こう...ってことではないでしょうかね。

いつも同じなのに何故?ではなくて、いつも同じだから買う...という事なんだと思う。(案外、深い話だ)
でも...竹内まりやは、60になっても、70になっても、「恋と呼べば甘すぎるわ 愛と呼べば重すぎるわ」なんて曲を創り続けるのだろうか?

2007年07月21日

オシムの言葉

最近、うちのエンジェルはサッカーに、強い関心を示す。

原因は、2人の魅力的な人物による所が大きい。

まず、中村俊輔。素人が見ていても、楽しいし、いつまでもサッカー少年のように、初々しくてピュアな感じがいい。

で、もう一人は、イビチャオシム。彼については、先日のカタール戦後の異常なインタビューの光景をみて、金田家内での注目度が、高まりつつある。

カタール戦は、高原のゴールで1対0でリードしていたにもかかわらず、ゴール前での阿部のファール後のフリーキックで同点に追いつかれ、勝ち点3を逃した試合。

試合後、インタビュアーが、オシムに、「1対1引き分けという結果でしたが...」と軽く振ったところから、異常なる光景が始まった。通常、試合後のインタビューでは、選手・監督は、インタビュアーに対して答えるというより、テレビカメラに向かって答えるという印象が強い。

しかし、オシムは違う。質問を通訳から聞くや否や、190センチを越える巨体を、インタビュアーに向けた。

「君は、試合を見ていなかったのかね、見ていたのかね。私は、当然ここにいたので、1対1という結果を知っている」

その後も、「一体何を聞きたいんじゃ、ボケ」という姿勢を崩さず、インタビュアーを詰め続けた。

スポーツ関連のインタビューは、質疑応答ではない。事実をインタビュアーがサマリーするのみ。その事実に対する評価、感情などを、選手・監督が察して、コメントをするという形式。「1対1引き分けという結果でしたが...」「後半に失点しましたが...」と、質問形にはなっていない。

そこには、質問者と解答者の間の暗黙の了解があるのだが、予期せぬ引き分けに完全にキレているオシムには通用しない。テレビ朝日では、試合後のオシムのインタビュアー役は、くじ引きで負けた奴が担当するというスキームを、導入するに違いない。

オシムって、本当に面白い爺さんだ。最近の発言をみてみると...

「...私を含めて代表スタッフはある程度の数学はできるので、必要なことはわきまえている」。 <アジア杯1次リーグ最終戦のベトナム戦前日の記者会見で「試合中に(同組の)UAE-カタール戦の途中経過を選手に伝えるか」と聞かれ>

 「...試合結果よりも、選手、スタッフが誰も心臓発作を起こさずに終えられた。...」。
<アジア杯:日本3-1UAE>◇1次リーグ◇B組◇ハノイ
 気温30度、湿度87%の厳しい環境の中で勝った試合を振り返り>

「お前たちはアマチュアだ。オレはプロだから死ぬ気でやっている。お前たちはそこまでやっていない。...」。

<アジア杯:日本1-1カタール>◇1次リーグ◇B組◇ハノイ
 アジア杯1次リーグ初戦で、終盤にカタールに追いつかれてドロー。集中力を切らした選手を厳しく叱責した>

 「あなたが監督をやれば、雰囲気が良くなるのでしょう。...結果はやってみないと分からないんだから」。

 <アジア杯初戦前の記者会見で「3連覇を目指すにはムードが足りないという声があるが」という質問に対して、厳しい表情で答える=2007年7月8日>

 「ほかの国は20日前後準備期間があるのに、日本は30日までリーグ戦がある。疲れ切った選手とけが人を連れて大会に挑むのは、斬新なアプローチと言うしかない」

 <アジア杯を前に闘莉王ら故障者が続出する状況に、オシム監督もグチっぽくなる=2007年6月25日>

「...まあ、中村さんは素晴らしいスター選手ですから、私がここで先発を予告すれば、あと1万5000人ほどは観客が増えるかもしれませんね。政府がそういう政策なら、協力してもいいかもしれません。そもそも日本では、1つのニュース番組で中村が毎回3本ぐらいゴールを決める。私が日本に来てから1500日くらいですから、5000点近く見たことになります。私が生涯で見たゴールよりはるかに多い。」

「うまくやる方法はいろいろあるが、本当にうまくやるには、Jリーグの時と同じ気合とエネルギーが必要だ。私が選手にそれを求めるのは酷なこと。ケガをしないことが第1で、それは選手も分かっているはず。この練習試合で犬死にするようなインテリジェンスに欠けた選手はいないはずだ。...」。

 <日本代表合宿で流通経大と練習試合を2戦行い、ともに1-0の辛勝に終わった。Jリーグの過密日程が影響し、選手は疲労を隠せずモチベーションも上がらないままだったことに、オシム監督は選手を擁護=2007年5月16日>

「1トップ、2トップ、3トップなど戦術上、いろいろなタイプが必要になる。それに高原も入れている。あと日本にどんなFWがいるでしょう。趣味の問題もある。まあ趣味について論議してもしようがないという欧州のことわざもある。ただ大統領令とか何か外からの基準で代表が選ばれるのは良くない。イケメンだけの代表とか見掛けではなく、プレーで真の代表を呼ばないと」。

<日本代表候補合宿で、FWの選出方法について聞かれて=2007年5月15日>

「2対9。2人の方ではなく、9人の方が優先権がある。彼ら2人のためにチームがやるのか、彼らがチームに適応するのか。どちらがいいのでしょう。皆さんに聞きたい。2人も大事だが、私にとって、そのほかの選手も大事なんです。...」

<親善試合ペルー戦で欧州組の中村俊輔と高原直泰を招集。前日の記者会見で2人に質問が集中することにナーバスに=2007年3月23日>

彼は、色々な事を語っている。しかし、よく読むと一つの大きな信念が全てを貫いていることに気付く。それは、プロフェッショナルに対するリスペクト。(海外組に対する過大な期待が重荷になることを回避する配慮、海外組が異常に注目を集めることによる国内組のモチベーション低下への配慮など、非常に心細やかだ)彼の求めるプロフェッショナリズムは、どうやらインテリジェンスとデリジェンスを要素としていることも読み取れる。

そして、この2つの要素に欠ける人間とのコミュニケーションは、嫌悪ともいえる棘を含んでいる。
・勝ち点計算がらみで質問をした報道陣に、「ある程度の数学はできる」
・不用意なファールで同点に追いつかれて「お前らは、アマチュアだ」と怒鳴りつける
・チームの雰囲気が悪いといわれ、報道陣に「あなたが監督をやれば、雰囲気が良くなるのでしょう」

そして、その信念を、色々な形で表現できる、知性、ユーモア、ボキャブラリーを持ち合わせている。そして、大抵において、この表現力は、道理にあわないものへの攻撃という形で、発揮される。(サッカー協会が決めた、超過密スケジュールにたいし、「疲れ切った選手とけが人を連れて大会に挑むのは、斬新なアプローチと言うしかない」とは...)

オシムは、日本には余り存在をしないタイプのリーダーではないか?
信念はあるが、広い視野と表現力は、持ち合わせていないパターン、広い視野と柔軟性を持ってはいるが、フィロソフィーには欠けるパターン、ひらめきと実行力には優れているが、自分の行動を標準化、言語化して他者に理解させることは、出来ないパターンなどは、「あ~あ~、いるいる」という感じだが、オシムのような変幻自在タイプは、稀有な存在だ。とりあえず、彼が、オーストラリアの監督でなかったことに、明日は感謝するに、違いない。


2007年07月19日

奇妙な祭

俺は、会社で起こったことを、かなり克明にマーメイドに説明をする。

で、説明しながら思う。俺って、常に金儲けのことばかり考えているのね。職種としては、しょうがないところもあるのだが、エンジェルから、「貴方は、基本的に、銭、銭、銭の男なのね」とか言われると、凄く悲しくなったりする。

うちのエンジェルの希望は、Field of Dreamsで、主人公の奥さんと娘が、揺らしている大きなブランコを設置しても、問題にならない位の大きさの家に住むことである。(野球場までは、いらないようなので、ちょっと安心している)

そのために、日夜努力奮闘を続けた結果が、銭の亡者とか言われるのは、かなり割があわないような気がして、涙で瞳を潤ませているのだった。

毎日、ゆとりなく忙しく働いているのだが、こういうカオス状態を整理したら大学で、もう一回勉強をしたいという気持ちが、日に日に強くなっている。

うちの娘が今年大学生になったのだが、流石に国文だけあって、完全に浮世離れした勉強をしている。(先日提出したレポートは、今鏡について...だと。)恐らく、実生活では、殆ど役に立たないと思うが、この実利とは無関係な領域に、血道をあげているところが、何とも言えず羨ましい。

俺は、経済学部出身だ、とても恥ずかしいが。大学のクラブで、英語専門の方と、クリスマスキャロルの輪読会をしたり、社会専門の方と、文化人類学の専門書の読書会をやったりと、専門外のことのみ、かなりの労力を費やしていた。そういう無駄で、非生産的な時間の使い方こそ、本当の贅沢なのでは、ないでしょうか、皆さん!!(実際、専門のほうは、全然記憶に残ってない、よく考えたら余り授業にも出席していないのね)

会社が成長軌道にのって、時間的なゆとりが出来たら、夜間開講の大学院に行って、どうにもこうにも役に立たないような領域について、フカ~ク学びたいというのが、今の俺の望みです。

前置きが長くて恐縮だが、今読んでいるのが、まさに、役に立たない事に全力フォーカスした本で、かなり腹を抱える。

「奇妙な祭」杉岡幸徳著 角川ONEテーマ21

この杉岡氏の肩書きが、また何とも怪しくて、「奇祭評論家」。内容は、春夏秋冬に日本で行われている30万の祭(日本では、毎日1000近くの祭りが開催されているのね)のうち、厳選された変で妙な祭を、杉岡氏が実際に現地で見物・調査したものを纏めてある。

ざっと列挙するだけでも、

女性器の神輿が町を練り歩く

田の神に泥をぶつける

ニューハーフが男根神輿を担ぐ

キリストは青森で死んでいて(身代わりに弟が十字架にかけられた)、流れ流れて青森に土着し、名前を八戸太郎天空と改名しているのだが、そのキリストを神式で祭る

女装した男が札をまく

蛙に扮した男が、高さ14メートルの棒の上でアクロバットを披露する

里芋の長さを男達が比べる

男が蛸になって、棒の上を回転する

ひょうたんに扮した男が巨大な草鞋をはいて、徘徊する

男達が全裸で走る

神主がしりを振って踊る

奇妙な祭の特徴は、恐らく奇妙でなくてもそうなのかもしれないが、エロであること。また、奇妙な事を皆大真面目にやるわけだが、何が起源でそういうことをするのかが、よくわからないこと。一応、由来などはあるにはあるけど、どうやら、どれもこれも、かなり怪しそうであること。

著者は、「奇祭を知ることは自分自身を、日本全体を知ることに繋がる」と、言い切っているのだが、その心は、「何だか、胡散臭くて、よくわからないこと」を「知ることが出来る」という意味(らしい)。

読んでいると、こういうかなりお馬鹿さんの大騒ぎが、好きで好きでたまらないという、著者の躍動感が、感じられて、ちょっと楽しい感じです。

2007年07月17日

過剰なるもの

刺激的なもの、扇情的なものが、周囲に溢れている為、よっぽどのものでないと、印象に残らない傾向にある。

感性が、かなり鈍化をしている。お気に入りのアーチストのアルバムを買うと、以前は、じっくり最初から最後まで何回も聴いて、いつの間にか歌詞も全部覚えてしまっていた。最近では、MDに録る、つまらない曲は飛ばして聴く、というパターン。そうすると、スマッシュヒット系の曲しか聴かないので、何の為にアルバムを買ったのかわからなくなるという感じ。ドラマチックでない曲、シンプルなアレンジ、ありふれた歌詞などには、全く反応しない自覚症状がある。

何か、常に過剰なる何かを、我知らず求めているようだ。最近、遂に北方水滸伝19巻を読了したが、考えてみれば、この作品も、「過剰なる何か」。108人の主要人物を、時間軸で整理し、夫々に、人物設定を与え、バックストーリーを作ってある。読んでいて、息苦しくなるのは、北方謙三の過剰なる緻密さのせいだと思う。

今日、衝撃的なニュースがあった。

千葉真一引退会見!「2代目千葉真一を作りたい」7月16日14時42分配信 オリコン 千葉真一が“俳優業”を引退。後生の育成事業へ  先日、生出演したトーク番組で突然俳優引退を発表した千葉真一が7月16日(月)、都内で会見を開いた。同番組では「来年、新しい出発をしたい」と話していたこともあり、今後の活動についても語った。  現在放送中のNHK大河ドラマ『風林火山』で演じている板垣信方役に燃え尽きたという千葉は「昨日(15日の放送)が板垣の最後で。板垣の死とともに千葉真一を葬り去りたい」と改めて俳優引退を宣言以下略

以前も書いたが、現在放映されている大河ドラマ「風林火山」は、とんでもないことになっている。

亀治郎の独走である。

武田晴信は、連戦連勝をおさめるうちに、敗北を強く恐れるようになる。そしてその恐れが、新たな戦へと駆り立てていく...というWar-addictedな状態に陥る。(じゃあ、戦を止めて、のんびりすりゃあいいじゃん...等という至極尤もな疑問は、どこかに放置されている~ちょっと?な設定だが、そこは無理押しあるのみだ)かつての、爽やかな青年武将の面影はなく、瞳は狂気と猜疑心で、不気味な光を放っている...。

亀治郎は、この狂気を、凄まじいテンションで演じる。激しく目をむき(凄い大きさだ)、唇をゆがめ{顔が変形したまま戻らなくなりそうだ)、「皆殺しじゃ」とか「総攻めじゃ」とか叫ぶのだが、画面から飛び出しそうである。前回、彼を守るため、千葉真一演じる板垣が、死んでしまうところで、「い、た、が、き~~~~~~~」と叫ぶシーンに至っては、中学生の息子と、思わずユニゾンで復唱してしまった、「い、た、が、き~~~~~~~」(い、た、が、き...の夫々の音の間に、かなりのポーズがある)

千葉真一の引退の直接の原因は、この「板垣信方役に燃え尽きた」ということなのだが、全て亀治郎のせいに違いない。

亀治郎のテンションに、辛うじて追いつけそうなのは、正直、千葉真一だけだった。前々回の、最後のシーンで、千葉&亀治郎の絡みがあるのだが、科白がどうとか、演技がどうとか、言う類のものではなく、どっちがエネルギーを放出できるかという、ある種の競争をしているようであった。

千葉真一を引退に追い込んだ亀治郎は、本来の主人公であるべき山本勘助を、完全に置き去りにして、画面を制圧している。もう誰も追いつけない亀治郎だが、千葉真一なき後、一体どうするのだろうか?他人事とはいえ、少し心配になる。

若手女形の代表格である亀治郎は、インタビューで武田信玄以外の役であれば、どの役を演じてみたいか?という質問に、「由布姫」と即答したらしい。 もう、ここまできたら、由布姫も勘助も、全部亀治郎にお願いをしたらどうだ、NHK。

異常なまでに過剰な、亀治郎には、もう一瞬たりとも目が離せない。普通に演じている他の俳優が、間抜けに見えてしまうのは、俺だけだろうか?既に、極彩色の亀治郎ワールドに、ハマッテしまったのだろうか?

2007年07月16日

刺青

歳をとっても、人見知りは中々克服できない。

親しくなると、図々しいくらいなのだが、そこに行き着くまでに時間がかかる。特に、いつも悩むのは、視線の合わせ方。

目は口ほどに物を言い...というとおり、目が表現するものは大きい。余り、何につけても自信のない俺としては、相手の目を見ながら話すなんて、とても恥ずかしくて出来ない。

「話しをする時は、相手の目をみて...」などと、よく言われる話だが、初対面だったり、余り親しくもないのに、そんなことは、出来んだろうが...といつも言い訳しつつ、視線は泳ぎっぱなしである。初対面の印象が悪いのは、そういうところにも、影響があるんだろうなあ...と反省する。でも、中々顔さえ、見ることができない。(かつて、「金田さんは、自分の目を見て話しをしないのだが、嫌われているのではないか?」等と言われた事があったが、それは,全くの誤解であることを、ここで付け加えたい)

世の中には、「話しをする時は、相手の目をみて...」というのを、忠実に実践されている方もいて、なおかつこのタイプは、対人の距離感が短い(あくまで物理的に)傾向が強く、いつも閉口する。

俺は、半径1.5メートル内には、誰にも入って欲しくないタイプなのだが、40~50CMまで近づき、しかも正対して、こちらの目を凝視しながら、お話をされたりする。そんなに、近づかなくても、充分話は聞こえるよって、心の中で言うのだが、そんなことは忖度することなく、お構いなしにドンドン近づいてくる。本当にドキドキするっていうのに。

こういう場合は、バックステップしたり、左右どちらかに、体をずらすなりして、視線をかわし、かつ距離をとろうとするのだが(ボクサーか)、こちらの動きにあわせて、先方も位置を変えたりして、正対を崩さなかったりする。
真上からみていると、二人でくるくる廻っている、かなり可笑しい光景が展開しているに違いない。

先日、マンションのエレベータに、20代後半の女性が乗り込んできた。栗色に染めた髪をアップに、薄青色のシャツのうえに、夏っぽい、白地にイエローの細いストライプがはいったノースリーブの上着をきている。彼女は、エレベーターの出口側に、俺は奥に立っていた。

2人だけが乗っていて、彼女は、出口側を向いているにもかかわらず、極めて強い視線を感じる。何か変だ、自意識過剰なんだろうか?...(適性検査で、「誰かにいつも見られていると感じる」などという質問があるが、そういうことか)などと訝しくおもいながら、見るとはなしに、彼女の背中をみた。

背中に「それ」はあった。薄青色のシャツと見えたものは、実際には、シャツではなく、刺青。

アムロが、腕に息子の名前のタトゥーを入れたり、タトゥーシールなどがあったり、最近では刺青といっても、かなりお洒落なファッションアイテムというイメージだが、俺の目の前の彼女(いや、「姐さん」と呼ぶべきか?)の背中に広がるものは、そういう生易しいものではなかった。

かつての東映映画でお馴染みの、仏教関係をモチーフにしたもので、大胆に露出した背中に、「それ」はあった。大きく描かれた、観音様の顔が。

切れ長の瞳が、俺を見つめている。観音様の目に吸い込まれるような感じで、視線を外す事ができない。時計のカチカチ言う音だけが頭の中に響く。

突然、エレベーターの扉が開いた。彼女は、髪留めを取る。長い髪が背中を覆った。彼女は、エレベーターの外に足を踏み出す。何かに凝視されている感覚は、嘘のように消え去った。

ちょっと振り向いた彼女の横顔は、何処にでもいるOLという感じで、特に美しくも、醜くもなかった。鬼龍院花子や緋牡丹お竜のようなオーラとは無縁の、平凡な横顔。

他者をじっと見つめることは、自分を曝け出すことでもある。人の目を凝視し続けることが出来る人は、強靭な精神をもっているに違いない。

背中に彫った観音様は、誰かを常に見つめている。なにせ、絶対的存在なのだから、人見知りをしたり、恥ずかしがったりすることもないだろう。あんな重たい非日常的なものを背負って、彼女は、会社で売上伝票を整理していたり、平凡な日常を過ごしているのだろうか?辛くなる時は、ないのだろうか?などと、色々なことを思いながら、俺もエレベーターから外に出た。

2007年07月10日

失われた最後の打席について

全く私事で恐縮だが、と言っても、大体において、このブログは私事について書いているので、恐縮するのもおかしな話ではある。

そんなことで、恐縮していると、ずっとひっきりなしに恐縮しなくてはならないし...。

先週の土曜日は、中学生活最後の大会であった。下馬評では、息子の属するチームは、鎌倉大会は勝ち抜くであろうし、湘南大会、県大会、関東大会ももしかすると出場可能では?ということだった。

結果は1対0で何と一回戦敗退。即引退ということになった。初回に一点を取られ、6回ツーアウトまで、恐ろしく速いストレートと同じモーションでブレーキ鋭いカーブを投げるピッチャーに、パーフェクトに押さえられた。

予想外の一回戦敗退に、3年生は、試合後全員ショックの余り、座り込んで泣きじゃくっていた。何か野戦病院のような、とても悲惨な光景だった。勿論、うちの息子も、同様で、顔を帽子の中に突っ込んだまま、立ち上がれない。彼の場合、ショッキングなのは負けただけではなかったのである。

彼は、打力が弱いのだが、ここという場面では、必ず打つ。普段は気が弱くて、甘ちゃんなのだが、追い詰められた局面になると、力を発揮するタイプのようだ。この試合でも、最終回ワンアウトで打順が回って来たときは、何とかするに違いないと、期待しながら見守った。まだ一点差だ。

彼が、打席に入ろうとしたその時、悲劇が彼を襲った。唐突に、監督がでてきて交代を告げたのだ。2ヶ月前に右手首の骨を折り、欠場していた3年生を代打に指名したのだった。息子は、このチームになって1年間、全イニングフル出場をしていた。しかし、中学生活最後(かもしれない)、最も重要な打席を、理不尽にも奪われた。

既に丸3日経過したが、俺も奴も、まだこの試合について、何の話もしていない。奴が、何事もなかったように、明るい顔をしているのが、何とも痛々しい。

彼の中学での野球生活は、空白のワンピースを残し終った。この不条理なワンピースについて、ポジティブな意味づけをするのが、恐らく親父の務めなのだと思っている。

「普通に生活していく中で、色々と不条理なことは起こる。だからと言って、そこで立ち止まったり、絶望したりしても、何も産みだすことはできない。
お前が交代したからこそ、怪我をしていたチームメイトは、中学最後の打席を得ることができ、中学での野球生活を、それなりに締めくくることができたのだ。そのこと自体は、素晴らしいじゃないか。
お前は、失われた物を取り返す為に、高校で甲子園にむかって全力で挑戦すればいい。」

そういったことを、話そうと思っているのだが、中々言い出せずにいる。気丈に振舞っている顔をみると、親父としては、ちょっと泣きそうになってしまうのだった。もしかすると、親のほうが立ち直りが遅いのかもしれない。情けない話だが...。

2007年07月05日

右から来たものを左にうけながす

ムーディ勝山の「右から来たものを左にうけながすのうた」は、非常に暗示的だ。

この歌は、右から何かが、いきなり、不意にやってきたので、それをとにかく左に受け流す…という曲である。

本来彼はハト派の政治家らしい。

2006年12月6日に「イラク戦争を支持しない」と発言。
そうすると、右から、右から、批判がやってきて、それを彼は、左に受け流す。

2007年1月には、「イラクに大量破器があると決め付けて戦争に踏み切ったブッシュ大統領の判断は間違いだった」と発言。
そうすると、右から右から、批判がやってきて、それを彼は左に受け流す。

2006年10月、(普天間飛行場移設について)「私は米国に『あまり偉そうにいってくれるな。日本のことは日本に任せてくれ』といっている」
そうすると、右から右から、批判がやってきて、それを彼は左に受け流す。

許永中の会社の社長を務め、事務所の所在地が雀荘であるという、ちょっとグレイな感じの久間元防衛大臣は、上述のような問題発言を短期間に連発している。ハト派である彼の発言は、同盟国アメリカの感情を見事なまでに逆撫で。(故意なのかは不明)
日米同盟を最重視する安倍内閣の閣僚として、どこかで、キチンとバランスを取りたいという気持ちが働いたに違いない…というのは、深読みか。

2007年6月、「原爆を落とされて長崎は無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったのだ、という頭の整理で今、しょうがないなと思っているところだ」
そうすると、今度は、左から左から、批判がやってきた、それを、彼は、右に受け流す…ことは、出来ずに、遂に辞任に追い込まれた。

被爆地、長崎出身で、かつ長崎2区選出の代議士である彼に、「原爆しょうがない」発言が、どのような波紋を引き起こすかを、理解できなかったとも思えないが…
(被爆地広島に住んでいた俺の感覚からすると、この不用意さは信じられない。まるで、広島球場で、カープ以外のチームを応援する位、無謀で危険な行為だ。久間氏は、この発言後、8月9日の平和記念式典への参加を拒否されることになった)

もしも あなたにも右からいきなりやってくることがあ・れ・ば~♪ このうたを思い出して~そして左に受け流してほしい♪ 右から来たものを左にうけながすのうた~♪
変にバランスをとらずに、右翼、タカ派、親米派からの批判は、左に受け流しておけばよかった…のか? でも、問題発言の中には、 「私はやっぱり、あそこ(沖縄)は拠点として真っ先に占領したと思う」 長崎市長銃撃事件のときには、 「本人が亡くなった場合、 補充(の立候補届出)はいつでもできるよう公職選挙法を見直すべきだ」「補充がきかないと共産党の市長が誕生してしまう」と発言しているのを鑑みるに、右翼・左翼、タカ派・ハト派、親米・反米という、主義主張上の問題というより、単に思慮が欠けているだけとも思える。もしそうであれば、遅かれ早かれ同じ結果になっていたのかもしれない。

しかし、思慮が欠けていると言っても、2006年12月から、半年ちょっとで、ここまでハイペースで問題発言をぶっ飛ばすのは、何か狙いでもあるのか?思慮の欠け方が、常識はずれなのか?学習能力がないのか?食い合わせが悪いものを食べたのか?

♪あ~あ~この放言砂漠~

2007年07月03日

ミッキーを殉教させるんじゃない

外務省が「国際漫画賞」を作ったというニュース。同賞は、漫画を通じて日本への関心を高めようと、漫画好きで知られる麻生外相が発案。26の国・地域から計146作品の応募があったとのこと。

海外の漫画を表彰するとどうして、日本への関心が高まるのかは、よくわからないが、まあいいのかなあ。

俺たち、新人類世代は、とにかく漫画が好きだった。俺の尊敬する人は、かなり長い間、南斗水鳥拳のレイ。(勿論、今も尊敬している人ベストテンに入っている)

もしかすると、レイって誰って思う人(がいるかもしれないので)の為の注:レイとは南斗六聖拳「義星」の男。人のために生き、命を懸ける宿命を背負う。マミヤたちの村に侵攻したラオウに挑むも、馬上からの闘気による攻撃に圧倒されてしまう。ケンシロウとの友情に殉ずるべく、レイは、南斗究極奥義「断己相殺拳」で相打ちを狙うが、命を賭したこの勝負もラオウには指一本触れる事も叶わず、3日後に全身から血を吹き出して死に至った…粗筋だけで泣けてくるぜ。

大学の時に、いつか、もしかして40歳を越えるような歳になっても、漫画を読み、サザンや達郎を聴き続けているのだろうか?と友人と話しをしたことがあった。その時の結論としては、そんなアホな、アハハ…ということだったのだが。

学生時代と比較にならない位リッチな俺は、財力にものをいわせて、メジャーを62巻、ワンピース42巻を買い揃える始末で、過去よりも更に漫画を読むようになっている。(このブログは、達郎のスプリンクラーを聴きながら書いている。夏といえば、やっぱりbig waveだ。)

こういうのを進歩がないというのだろうか?

ハマスのミッキー『殉教』 国際的な非難で降板 2007年7月1日 東京新聞朝刊

 【カイロ=萩文明】パレスチナのイスラム原理主義組織ハマスによるテレビ局の子ども向け番組に登場していたミッキーマウスそっくりのキャラクターが、番組の中で「殉教」し、降板した。

 キャラクターは「ファルファル」の愛称で、週一回の「明日への開拓者」に案内役で登場。パレスチナ人の少女と軽妙な会話を繰り広げながら、ハマスが綱領で掲げる「イスラエル破壊」を訴え、物議を醸していた。

 最後の出番は六月二十九日の放送で、ファルファルの土地を奪おうとしたイスラエル高官に殺された、との設定。ファルファルはイスラエルを「テロリスト」と呼び、少女が「土地を守ろうとしたファルファルは、子どもたちを狙う殺人者に殺され、殉教者になりました」と話した。

ルフィは、世界平和を語ることはない。ケンシロウは、無言である。ナルトが、組合活動をすることはないし、コナンが社会派ミステリーに挑戦することはない。漫画のキャラクターは、無宗教でノンポリというのが、不文律なのだ。

ミッキーを、土地を奪おうとしたイスラエル高官に殺された殉教者にするという設定は、ルール違反ではないかなあ、やっぱり。一応、このミッキーは、ファルファルという名前をもち、ミッキーと違うキャラクターということになっているが、顔みたら、もろミッキー。中国の、耳の長い猫(だったっけ)の2千倍は、ミッキーに似ている。

テレビ局責任者は「国際社会に非難され、中止を求められた。新しいキャラクターをつくり、現実のパレスチナと同様、番組で戦い続ける」と話しているらしい。闘い続けるのは、別に当方の関知するところではないのだが、キャラクターはよせ…といいたい。(でもどうしても…というのなら、キャラはティガーにして欲しい。イスラム教徒のティガーってどんな感じなのか、ちょっと見てみたい気もする)


2007年07月02日

みのポリティックスに物申す

以前勤めていた会社では、会議で工場長から、「~の原価は幾らか?」などというご下問を受けることがある。

「~の原価」というのは、それを決定する要因としては、100とか200とかあって、一言ではいえない。しかし、こういうシチュエーションはグニャグニャ言っても駄目なのである。男らしく、「トンあたり2万円です」等と、多少の誤差は目を瞑って、言いきることが必要。そうすれば、会議はスムーズに流れていくのだ。

やはり以前勤めていた外資系企業の、ワールドワイドミーティングなどでは、マクロ経済について、「日本はどうだ?」みたいな事を聞かれることがよくある。首相でもなく、ただの平凡なサラリーマンに過ぎない俺に、そんなビッグクエスチョンをぶつけるんかい?という話だが、ここも真偽は別として、躊躇なく、何かを言い切ることが求められる。実際のビジネスの場で、「持ち帰ってご回答します」というような手は、殆ど通用しない。

つまり、こういったシチュエーションで求められるのは、真実ではなく、真実の一面を表現する単純なモデルと、それについて、白か黒かといった明確な回答なのである。ビジネスの世界では、時間が最重要ファクター。聞くほうも、聞かれるほうも、その制約条件下で、より良い意思決定を、最速で行おうとすると、上記のようなアプローチにならざるを得ない。

ただ、優秀なマネジメントは、白黒二元論が、短期間で意思決定をするための便法であることを知り、そのリスクも熟知しているので、余り問題にならない。

問題は、世の中を単純な切り口でバッサリ切れると思っている人々、もしくは複雑な状況だと思考停止になるので、殊更に白黒にわけてしまう人々ではないか?

小泉首相が、あれほどの支持率をキープできたのは、「自民党をぶっ壊す」「郵政民営化の是非を問う」など、過激でわかりやすい選択肢を、国民に突きつけ続けたからであろう。

先日の日経に、「みのポリティックス」の記事が掲載されていた。「みのポリティックス」とは、朝のワイドショーで、みのもんた氏が、政治や社会問題を取り上げて、白黒つけていくコメントをだす。そうすると、その小気味よさに、多くの国民が耳を傾け、あたかも自分の意見であるかのように、同一視をしていく風潮の事を指す。

実際のところ、政治問題だろうが、社会問題だろうが、小さな会社の経営問題であろうが、そんなに単純ではなく、複雑に色々なファクターが絡まっている。そういう複雑な話しを、単純な二元論にすり替えて、白黒つけてしまうことは、知的怠惰ではないか?

みの氏が、快刀乱麻で、社会問題を切るとき、多くの重要なファクターについての重要な視点が、ごっそり抉り取られ、忘れ去られる…という現象が起こっている。日本人は、そんなにアホではない…というご意見もあると思うが、俺としては、最近非常に懐疑的なのであった。