セクシーボイスアンドロボアンド中島みゆき
最近はまっているものについて。まず、「セクシーボイスアンドロボ」
不規則な生活をしているので、中々連続ドラマを観る事ができないのだが、「セクシーボイスアンドロボ」だけは、欠かさず観ている。ストーリーは、割と荒唐無稽で、そんなにリアリティがあるわけでもない。主役の二人の存在感が全て。かなり可笑しい。爆笑するわけではないが、何かじわじわ可笑しい。ロボの松山ケンイチとニコ大後寿々花との掛け合いが、妙にくすぐったくて楽しい。
松山ケンイチは、デスノートのLとは全く別人。異常にテンションが高く、とってもピュアな感じがいい。
いい役者は、沈黙している時、雄弁に本質を表現するものだが、この二人も13歳と22歳なのに、とっても深い表情をする。(オーディションにおいて、角川春樹が松山ケンイチを評して「薬師丸ひろ子や原田知世を発見した時より震えた」とコメントしたらしい)
中島みゆきのシングルコレクションという3枚組CDを買った。20年ぶり位に聴いた、「孤独の肖像」であるが…。深夜、ベランダで煙草を吸いながら、フル音量で、うずくまるように聴いている。聴くと落ち込むのだが~救いが全く無い歌詞なので~でも、聴かずにはいられない。もう数十回…。あることに気付く。
5分38秒の曲は、殆ど同じ歌詞同じメロディーのリフレインに次ぐリフレイン。1番とか2番はない、切れ目もない。「海の底にいるような孤独」を、ひたすら叫び続ける
全然まとまりがなくて恐縮だが、鈴木重子のアルバムも中島みゆきと同時に購入。こちらにもはまっている。中でも蘇州夜曲。アカペラでワンコーラスだけ。服部良一の名曲である蘇州夜曲は、多くの歌い手にカバーされているが、こんな表現の仕方を選択するのか…とただ感嘆。
俳優にせよ歌手にせよ、本物の表現者にはon the edge感がある。
極めて不安定な状況下で、何かを表現することによってのみ、正気を保ち、救われる感じ。一種の狂気がある。表現する必然性や強い理由があって、はじめて人の心の奥底に、何かを伝えることができるんだろう。
一流の表現者になり得るには、どういう経験が必要なのだろうか?持って生まれた才能なのだろうか?凡人には全く見当もつかない。
そういう意味では、俺は嫌になる位何もかも平凡だ。過剰で異常でなければ、何かを創造できないとしたら、俺にはとっても無理だ。常識と知性が邪魔をしてしまう。これも、また辛い。

