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敗者からみた歴史  このエントリーをはてなブックマークに追加 このエントリー参照しているはてなブックマーク このエントリーをdel.icio.usに追加

歴史は勝者によって創られる。よって、後世の人間にとって、勝者は殊更に、素晴らしく、敗者はみじめで、無能で、あたかも、勝敗は、必然であったかと思われるような印象を与えがちである。

残っている史料は、勝利者もしくは勝利者におもねる人間によって書き残されたものであり、死人に口なし。よって、史料第一主義で、歴史を捉えると、勝利者の仕掛けたトラップにはまることもある。

石田三成などは、算盤勘定は得意だが、武将としてはからっきし駄目で、おまけに高圧的で、人気がなく、視野が狭く、老獪な家康に翻弄された挙句、関ヶ原におびき出されて、粉砕された…というかわいそうな位,酷い評価が与えられている。

「敗者からみた関ヶ原合戦」(三池純正著 洋泉社)という本を読んで、これまでと違う視点で、三成と家康を捉えることができた。

著者は、アカデミックな歴史家ではない。アプローチも、関ヶ原を調べるために、実際関ヶ原に行き、南宮山に登り、松尾山から古戦場を眺めるなど、史料第一主義ではなく、実際の現場の風を感じながら推論を進めている。

調査により、彼は、西軍陣地の近くに、大規模な土塁が今現在残されている事を発見する。これらと、残っている書状などの史料から判断すると…。
三成は、事前に中山道、北国街道を封鎖し、自陣の前面に巨大な土塁、柵を築き、松尾山の山下には、強力な陣地を構築していた。つまり、最初から関ヶ原で、家康軍を粉砕すべく、この地におびき出した…ということになる。

輝元・秀頼の出陣をあきらめ、また立花宗茂など精鋭1万5千の到着をまたずに、関ヶ原に着陣した理由が、この精緻に創りこんだ陣地への兵の配置を完了するためであったのだろう。

著者が確認すると、毛利軍の位置した南宮山からは、関ヶ原をみることはできない。また、関ヶ原に到達するまで、1時間も必要とする。栗原山の長宗我部軍も同様で、そういう意味では、戦いが始まる前から、2万を越すこの軍は、最初から戦闘的には計算外であった。

本来、毛利輝元が秀頼を連れて入城するはずであった松尾山という最重要地を、裏切り必至の小早川に奪われてしまったのが、最大の誤算ではあるが、それにしても、実兵力でいえば、ほぼ倍である東軍を押しまくり、小早川秀秋の裏切り後も、赤座・朽木などの諸将の裏切りまでは、優勢であった事を考えると、関ヶ原決戦は、三成の当初から練りに練った作戦という著者の見解もうなずける。

豊臣を裏切り、東軍についた大名の多くは、余り時間をおかずに、殆ど取り潰しの憂き目にあい、その後の消息もわからないものが多い。

それに対し、三成の長男、次男、妻、兄の妻など石田家の人間は、何の咎めを受けることなく、今に繋がる血脈を保っている。関ヶ原戦で最も奮戦した石田家の侍は、他家から高禄で召抱えられえるものが多かったという。

敵は皆殺しで根絶やしにする戦国の世で、家康の擦り寄った者たちに対する冷徹さと、三成の子孫、関係者に対する寛大な処置は、三成に対する評価の高さとリスペクトをあらわしているとはいえないだろうか?

勝負は、幾つかの偶然の組み合わせで、決定され、家康も三成も同じレベルで運命と闘っていた。関ヶ原の戦いに全てを賭け、佐和山城には何の蓄えも残さなかった、三成の潔さ、純粋さを家康は愛していたのだろう。関ヶ原以降、家康の長男である結城秀康は、三成からもらった名刀正宗を、「石田正宗」と称し常に着用していたとのこと。これも、家康の三成に対する愛情への傍証にはなるだろう。

敗者と勝者を分けるのは、紙一重の違い。勝者は、それを雄弁に美しい物語へと膨らませることができるが、敗者はただ沈黙するのみ。敗者の声なき声を聞く努力をしないと本当の歴史は見えてこないだろうし、その為には、実際、彼らが戦い敗れた場所に行き、同じ空気を吸うところから始めなくてはいけないのかもしれない。

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