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2007年05月31日

親バカな話

うちの息子は、毎日野球ばかりやっている。平日も、土日も、休日も、修学旅行の前の日も、ひたすら野球だけをやっている。このままで行くと、脳味噌まで筋肉になるのではないかと、心ひそかに心配している。

ある日、小学校4年生の子供をもつお母さんから、うちに電話がかかってきた。この小学生は、息子が所属していた、小学校の野球チームに参加している。つまり、チームでいえば先輩後輩の間柄だが、年齢差もあり、殆ど接点はない。接点といえば、息子の登下校の道沿いに、この小学生のうちがあることくらい。

お母さん曰く、
・以前、うちの息子が、その小学生のキャッチボールの相手をしたことがあって、それ以来、野球部の練習が終り、息子が、帰ってくるのを、その男の子は、家の前で待つようになった。

・うちの息子は、ほぼ毎日30分くらい、その子のキャッチボールの相手や、素振りを見てあげたりしているらしい。

・野球部の練習や塾もあって、忙しいのに、その子の練習につきあってくれて、大変感謝しているし、恐縮している…

…という、つまり、お礼の電話であった。

彼は、この事を俺や、マーメイドには、話さない。親から、どこをほっつき歩いて、こんなに遅いんだ、塾もあるのに…とよく言われているが、何も弁解めいたことは言っていない。

で、俺は、中々やるじゃん、お前って思うわけだ。何か、こういうさりげない感じで、自然に優しくできるというのは、何となくいいよ、お前って。

少々、成績が悪くても、こういう優しさをもてることのほうが、大切だ。勿論、成績もいいに越した事はない。

で、俺とマーメイドは、そういう電話がかかってきたことも、彼には報せず放っておくことにした。奴が喋らないのであれば、それは、俺たちが知る必要や、関知すべきことではないのだ。

父親が、悪戦苦闘をしているうちに、子供は確実に成長をしている。小さな声で、父ちゃんは呟く、「にくいぜ、この~、ど根性ガエル」 

2007年05月29日

ファミレスで小耳にはさんだ話

月曜日の午後5時過ぎ、俺は西新宿のジョナサンで、若鶏のみぞれ煮定食を食いながら、メールチェックをしていた。

横のテーブルには、大学生と思しき、男子二名が、大きな声で話しをしている。聞くとはなしに、彼らの会話が耳にはいる。

「俺の父親は、体を壊すまで、飲んだくれで、DVの嵐。もう、ちゃぶ台ひっくり返すなんて、日常でさあ…」

「上司に、飲みの場で、やんちゃして、母ちゃんと俺とで謝りにいったよ。小学生のときなんか,10回は行ったよな」

「そんな、親父も、大人しくなって、今は立派に、管理職をやっていて…(少し遠い目)。家族って、いいもんだなあ…って、しみじみ思うよ」

など、延々と、自分の家族の話を続けるのであった。多少、エピソードの歪み(上司を飲みの席で、ぶん殴ったからといって、小学生の息子を連れて、奥さんが上司の家まで、謝りに行くなんて、リアリティ無さ過ぎ)は、あるが、俺が違和感を感じたのは、そこではない。

自分の親とか家族とかの話をこんなに大学生って、するものなのか?俺が、自分の母親をネタにし始めたのは、ブログを書き始めたからで、大学生の時などに、友達にペラペラと話しをするような、話題ではなかった。

また、その話が、(先ほどのエピソードもそうだが)、芝居がかっている、上っ面な感じがする。ホームドラマなどにおける、「大学生が自分の両親を語る図」のステレオタイプを演じているようだ。

しかも、遠い目をして、「何だかんだ言って、家族っていいよなあ」なんて、言うところなんて、見てられない感じである。

若い男で、やたら愛想がよく、如才なく、お喋りな奴って、どうも信用ならない感じがするのだが、どうよ。俺は、最近マーメイドから、お喋りネコちゃんとか呼ばれているが、学生の時など、全然しゃべらなかった。やせっぽちで、イライラした目をしていて、無愛想で、神経質で、とにかく反抗的で、ナマイキで…でも若者って、そういうものではないのか?親との関係にしても、「家族っていいよなあ…」などと言うまでには、色々と相克、葛藤があり、年齢を重ねて、そういう境地に達するものではないのか?

(エンジェル)そんなの、人それぞれでしょう (お喋りネコちゃん)そうだね。その通りだね。

さて、もう一人の若者のほうだが…「子供のとき、お袋と、婆さんが、もめてヒドイ喧嘩になったんだ。怒鳴りあいになって、どうしようもなくなったときに、親父が帰って来たので、仲裁を頼んだら、そのまま玄関から外に出ちゃって。俺、どこにいくんだようって泣き叫びながら、親父の後を追いかけたんだ。親父は、俺の手を振り払って、ひと言、海へ行く…って。 俺んちは、埼玉だぜ。海って何処だよ?」

嫁・姑の喧嘩の最中に戻ってきた父親が、「海へ行く」といって、姿を消す図というのは、中々シュールでよろしい。こちらは、◎あげましょう。

2007年05月26日

藤原伊織

純粋さ…というのは、俺にとって,非常に重要な価値判断基準。

年齢を重ねていくことは、経験を積むことであり、現実と上手く折り合いをつけていくこと。現実は、奇麗事だけではない。絶望、失望、裏切り、挫折、葛藤、妥協、欺瞞、偽善、保身…。

これまで色々な人と会い、時間を共有してきたが、ちょっとした瞬間に、その人の過去の重さ、歪み、染み付いたもの…などに気付くことがあり、その度に、ちょっと目を背けたくなるような、見てはいけないものを見たような、複雑な気持ちになる。

そして、そういった場合、俺は一体どんな顔をいつもしているんだろうと、心配になる。笑った顔は下卑ていないだろうか? 何か、濁った表情はしていないか?それを、周囲の人に認識されていないか?

純粋さをキープし続けることは、難しい。

俺の叔父は、非常に苦労をし、辛酸を嘗め尽くしているにもかかわらず、寡黙で、赤ん坊のような笑顔をみせる男だった。

父親が死んだ時、色々なトラブルがあり、葬式の後の会食は、非常に気まずい雰囲気が漂っていた。不快気な表情を浮かべ、料理に箸もつけない人物に、叔父は、蟹の足を自分の口で噛み切って、食べやすいように身を取り出して、無言で渡した。その時、遺族である俺たち家族に対する気遣い、無骨な優しさ、邪気の無い笑顔が、そこに居合わせた人々全員に、じわっと伝わっていくのを感じた。

蟹の足を噛み切って渡す…たったそれだけのことで、とげとげしいわだかまりは溶けていき、雰囲気は嘘のように和み、故人の思い出話などを楽しく、そしてシンミリと皆語り合った。

あの無邪気な顔で、蟹の足を噛み切るのは、反則だよな…と思い出すたびに呟きながら、必ず泣けてくる。その当時70歳位だった彼は、それから数ヶ月後、自動車事故で亡くなった。

藤原伊織の作品の主人公(『テロリストのパラソル』、『ひまわりの祝祭』 『てのひらの闇』 など)は、無頼で、飲んだくれで、シャイでしょうがない癖に、誠実で、優しく、ピュアであり続ける強さを持った男達だ。そして、その姿は、著者である藤原伊織に重なる。

俺は、彼らのことが、たまらなく好きだし、もっと多くの作品で彼らに出会いたかった。

ピュアであり続ける為には、現実に真正面から向き合うタフさが必要だ。苦労からポジティブなエッセンスだけを抽出し、残りカスは完全に忘れ去る強さが不可欠だ。

叔父も藤原伊織も、色々な事を俺に教えてくれた。でも、もう会えないのは、本当に悲しい。


2007年05月24日

バクハスルシゴトノツヅキヲ

誤解をまねくことが多いのは、このブログのノンフィクション性。

書いていることは真実であり、俺の意見、見解であると思われたりする。ここで改めて否定するが、このブログの内容は、9割は俺の創作で、残り1割は俺の妄想である。よって、このブログを読んで、俺の事を、傲慢で、独善的だと思うことは、明らかな誤りである。リアルな俺は、雨が降るのを見て涙したり、時々ポエムを書いたり(ハートマークもつける)といった、ファンタジックなキャラである。(でも、趣味は古銭の収集だ)

だが、今から書くことは、紛れも無い事実。昨日、仕事に集中しすぎて、気付いたら午前4時になっていた。寝ようと思ったら、寝ぼけたエンジェルが、「バクハスルシゴトノツヅキヲ」。ビックリして、「何?」と聞き返したが、そのまま彼女は深い眠りに落ちていった。

バクハスルシゴトノツヅキヲ バクハスルシゴトノツヅキヲ バクハスルシゴトノツヅキヲ…仕事で疲れていた筈の頭が急に、フル速度で回転し始める。一体、エンジェルは何を俺に伝えたかったのだろう。気になって、眠るどころの話ではない。彼女に尋ねようかと思ったが、可愛い無邪気な顔で寝ているので止める。よし、この謎を解いてやる、爺っちゃんの名にかけて。

頭の中で、漢字変換だ。

獏はする死後との津月を…最後に「を」が来るということは、もしやこれは倒置?

爆破する市毎の都筑を…何か現代俳句のようだが、意味は通じない

爆破する仕事の続きを…え、つまり、仕事の続きを爆破するってことか??

俺の大好きな「パン屋再襲撃」(村上春樹著)は、こんなフレーズで始まる~彼女は断言した、「もう一度パン屋を襲うのよ」。~

「爆破する仕事の続きを」っていうのは、どこか「パン屋再襲撃」チックだ。俺にかけられた呪いを解くための儀式みたいなことなんだろうか?確かに、弊社は、「ブレイクしそうでしない」という呪いがかかったままだが、それも、もう直ぐ解ける…きっと。

第一、「爆破する」主語は一体誰だ。俺の事を爆破したい奴はきっといるが、ネガティブな感情を継続できない俺は、そんな情念ドロドロとは、全く無縁だ。

「仕事の続き」というのは、何かの暗喩か?「仕事」と書いて「じんせい(人生)」とかルビを振るのか…。俺は、「迷宮のアンドローラ」状態に陥ってしまった。因みに、俺のお気に入りは、「優しい雨」だ…全然関係ないけど。

暗闇の中、もつれる思考、傍らに眠るエンジェルの静かな寝息…。その時、俺は全てを悟った、全てのミステリーを産みだすのは、愛ってことを。

マーメイドは、毎晩遅くまで働く俺の健康を非常に心配していた。今日も今日とて、夜更かしをしている俺の事を気遣い、「残っている仕事など、私が全て跡形も無く爆破してあげる。だから、安心してよく寝てね」というメッセージを。「爆破する仕事の続きを」という言葉に込めたのであった…Quod Erat Demonstrandum。

「ワトソン君、うちの下宿の階段が何段あるか知っているかね」「20段くらいだろ」「違う、17段だ」「ホームズ、それが一体どうしたというのだ」「君は、愛情と関心をもって、物事をみる姿勢に欠けるのだよ」

ワトソンは知らない、ホームズは知っている。そして俺も知っている。221B Baker Streetの階段の段数を、エンジェルのメッセージの意味を、そしてこの世に存在するありとあらゆる謎を解く鍵は、LOVE…だってことを。

2007年05月23日

「現役続行」

5月20日、フェンウェイパーク。松坂が何の気負いもなく投げたストレートは、バリテックのミットに吸い込まれた。

今から、遡ること6年前。2001年4月4日。場所は同じフェンウェイパーク。あの日のストレートも、同じように美しい軌跡を描いて、バリテックのミットに。二回目のノーヒッター。

深夜、遠くボストンからの中継を見ながら、あの男の事を思い出す。一体どうしているのか?もう、戻ってこれないのか?

野茂、CMで“現役続行”挑戦し続ける大人の代表として起用  野茂英雄投手(38)が23日からオンエアされる、新飲料「キリンZ7(ジー・セブン)」(キリンビバレッジ)のCM「現役続行」篇に出演する。

 CMでは、挑戦し続ける大人の代表として起用された野茂が、3回目のノーヒットノーランを強く信じて「現役」を続ける姿が描かれている。野茂が見せる試合さながらの真剣な表情が、同商品の誕生をインパクト強く表現している。以下略

CMを、早速みる。トップガンのエンディングテーマにのせて、「1996年、1回目のノーヒットノーラン達成」「2001年、2回目のノーヒットノーラン達成」。青空が広がる、誰もいない球場で、あのトルネードから、速球を投げ込むシーンと共に「3回目もあると思っている」、「現役続行」という文字が躍る。

リハビリ中の四月に撮影されたというCMだが、豪快で力感溢れるフォームと鍛え上げられた肉体は、野茂英雄本来のものだ。

野茂が、もし大リーグ復帰に自ら懐疑的であれば、このCM撮影に応じるわけはないし、オンエアーすることを許可することもないはずだ。「3回目もあると思っている」、「現役続行」というのは、寡黙な彼にしては、珍しく雄弁で自信に満ちた、俺たちへのメッセージと言ってもいい。(勿論、俺も「三回目もある」と思っている)

トルネードをみて、大リーグに憧れた少年は、今や怪物としてフェンウェイに立ち、伝説の男の復帰を待っている。野茂英雄が、大リーグのマウンドに戻る時、新たな物語がまた始まる…そんな予感がする。

本当に、ワクワクする。

2007年05月21日

人の名前で遊んではいけない

大学生の娘に尋ねた。「フランスの前大統領は誰?」

悲しいことに、見当も付かない様子。そこで、ヒント…「古今亭」。

…古今亭しらくで御座います。毎度、馬鹿馬鹿しいお話しで、ご機嫌お伺いいたします。落語には、大体ご隠居さんと、遊び好きの若旦那などがでてまいりまして、この旦那ときたら、三度の飯より、相撲好き、首脳会談を後回しにして、大相撲を観にいきましたとさ…ご存知フランス大統領シラクのお話。

気を取り直して、「じゃあ、フランスの新大統領は?」
全く途方にくれる様子。そこで、ヒント…「一人ぼっちの猿」。

…それは、猿孤児。猿なのに孤児、孤児なのに猿という、暗い宿命を背負った彼は、次々と成功の階段を駆け上がっていく。それなのに、大統領就任のその時に、美しき妻が猿、じゃなかった去る。何と悲しや、猿の孤児、改めフランス新大統領サルコジ。

マーメイドから、何度も人の名前で遊ぶのは、失礼だから止めろと言われている。確かに、失礼だ。でも、サルコジと聞いては、反応しないわけには…ねえ。ヒトなのにサル。

ヒトなのにサルと言えば、柿本猿、猿丸太夫は、刑死した柿本人麻呂に対する、時の権力者から与えられた異名であったという説もある。
また、大化の改新で、根絶させれらた蘇我氏の名前は、代々、韓子(からこ)、高麗(こま)、稲目、馬子、蝦夷、入鹿。韓子は、倭・韓の混血児を示す普通名詞、高麗は単なる地名、いくらなんでも、子供に馬や鹿、蝦夷なんて名前をつけたくは無いだろう。これらも、時の支配者が適当に名前をこさえたという説がある。

ヒトに、猿だの、馬だの名前をつけるのは、時の権力者の意趣返しとしても、ブラックを通り越して、かなり性質が悪い。

というわけで、名前で遊ぶのは、マーメイドの言うとおり、余り気持ちのいいことではない。粋でいなせなシラク師匠と違って、猿のくせして、日本の伝統的スポーツである大相撲を、(何も知らないのに)「野蛮」と評するサルコジ大統領であったとしても、名前で遊んではいけない。御免ね、猿孤児、いやサルコジさん。


2007年05月20日

ふるさと納税制度

ふるさと納税制度というものが、話題になっている。

ふるさと納税制度って何かというと…

1.定義

  個人の所得税の一定割合を個人が育ったふるさとに納税するという新税制度。

2.ふるさとの定義

  個人が小中学校の義務教育期間、過ごした都道府県。
 ・小中学校時代、複数の都道府県に移り住んだ場合、
  期間の長い2カ所に2分割納税する。
 ・この期間海外に住んでいた人は、自分で自分のふるさと都道府県を指定する。
(個人の確定申告書にふるさと欄を設け、個人による書き込み式とする。個人の申告を 信用するという立場に立つ。)    

3.意義

所得税を納めるようになった個人を育てたのは、個人のふるさとである。
ふるさとなくして個人の現在の姿は無い。人間形成、技能修得の大切な時期を過ごしたふるさとに、恩返しの意味で所得税の一定割合を納税することは、理にかなったことであり、日本人の精神構造にも合致すると思われる。個人に対する人材育成のコストがかかっているのだから。
主体的生活者が増え、地方での就職生活を送るケースが増えたとは言え、やはり、仕事が集中する大都市に人口が集中し、産業や税金が集中するのは避けられない。多くの首長が「地域主権」を唱えている。地域に産業を誘致したり、ふるさとUターンを推奨したり、地道な活動を展開しているが、今こそ本質的に「地域主権」を実現するための新しい税財政を実現する必要がある。

これは、与党を中心に議論がされているものだが、反対論も多い。一つには、テクニカルな問題として難しいのではないか…という考え方だし、また民主党小沢代表は「「自公政権は言葉だけは聞こえのいいことを言っているが、実態は地方への補助金、地方交付税のカット(削減)だ。効率の悪い部門を切り捨てようとしている」と批判している。いつもながら、小沢代表は、わざと、シンプルに間違える。選挙を意識しすぎだ。

よくよく考えてみると、自分の税金が、どのように使われているかについて、納税者が全く把握していないのが、現状ではないか。例えば、神奈川県民税に貴方が支払った税額合計は幾らで、そのうち数%がXX、数%がYY、鎌倉市民税に貴方が支払った税額は合計は幾らで、そのうち数%がZZ…など、わかり易く理解でき、かつ例えば、この市民税、県民税によって、充実された社会資本のベスト10なんかがあると、地方行政の有効性もわかり易くなる。

上に書いた項目は、企業で言えば、投資効果分析みたいなもので、営利企業であれば、計画&結果について当然の如く、取締役会や株主総会で開示して、了承を得るべき項目である。(キャッシュフローの一部+αね)また、了承を得る際にも、わかり易いように、円グラフをつかったり、類型化したり、投資カテゴリーをつくったりと、色々工夫をするのである。何しろ、企業のオペレーションで使う金は、全部株主様のものだから当然。

行政には、こういう発想が欠けていると思うのである。

そういう意味では、今回のようにある一定額を、「出身地」の税額に使うとか、ある目的に使うというような決めが個人的に可能になり、かつこれが、トレーサビリティをもつことができれば、非常に素晴らしいことではないかと思ったりする。

「ふるさと納税」について言えば、森鴎外を思い出す。彼は、墓碑銘にわざわざ、「石見人 森林太郎」と書かせた。陸軍軍医総監になり作家として名を成しても、彼は、石見人であり、それ以外の何者でもなかった。俺も、税額の一割を下関のために使うという事に関しては、全くウェルカムな話だし、コンセプト的には、賛成なのだが、果たして技術的に、現行の税収制度を歪めることなく、運用することは可能なのだろうか?

このあたり、税金を数十年にわたって払い続けているにもかかわらず、全く無知であることも露呈。確かに、学校では、詳しく教えない。何故?

根拠なき権威について

よく、日本の財閥系企業の社宅で起こることとして、部長の奥さんは、課長の奥さんより、何だか威張っている…ということが社会問題として指摘されて久しい…わけではないが、確かにそういう事実はある。

言うまでも無く、奥さんは、部長とは別人格だし、部長から課長は個人的にお手当てをもらっているわけではないので、部長の奥さんが、強気になる根拠は、すこぶる希薄である。でも、現実としては、こういう不条理な現象は起こる。

子供のクラブの父兄会で、先輩の父兄が後輩の父兄の上に立つ…というのも,実際ある。上下を分けるのは、子供の学年のみという、非常に危ういスタンダードなのだが、案外有効。

立花隆、教育再生会議のノーベル賞受賞者なども、同じ口で、根拠無く強気である。嘗て、一花咲かせたことがある…ということで、専門外で、どんなに滅茶苦茶な事を言ってもいいという社会的免罪符を得たかのようである。勿論、誰もそんなものを渡してはいないのだが…。

高野連にしても、同じ。何様のつもりか。

考えてみれば、世の中には、根拠無く権威を振りかざす人間が沢山いる。そして、俺のように常識的かつ、スーパーロジカルな人間を、とても困惑させる。

何かの本に書いてあったが、「会議は、困ったちゃんに、コントロールされる」という法則性があるらしい。本来、「会議」というのは、正しい結論をだすために行うものだが、実際には、困ったちゃん(ロジックを超越して、自らの信念に殉ずる覚悟と過剰なエネルギーをもった人々…っていえばいいのかなあ)の顔色を、皆が窺う…って構図になりがちだ。困ったちゃんが一人であればいいのだが、複数名いるときなど、皆緊張の余り、動悸が激しくなる。

これは、もしかすると、日本人特有の問題ではないかと思ったりする。多国籍メンバーで会議をした経験では、殆ど全員が「困ったちゃん」というケースも多々ある。僭越ながら…とか、間違っているかもしれませんが…などという前置きを必ずつけてしまう、一般的日本人から見ると、信じ難いほど自信に満ち満ちており、自説を強く主張する…でも大抵、根拠は希薄だ。

そういう意味においては、困ったちゃんは、より国際化された人々ともいえるかも。とりあえず、俺の苦悩は深い。続きはウェブで…。

2007年05月16日

セクシーボイスアンドロボアンド中島みゆき

最近はまっているものについて。まず、「セクシーボイスアンドロボ」

不規則な生活をしているので、中々連続ドラマを観る事ができないのだが、「セクシーボイスアンドロボ」だけは、欠かさず観ている。ストーリーは、割と荒唐無稽で、そんなにリアリティがあるわけでもない。主役の二人の存在感が全て。かなり可笑しい。爆笑するわけではないが、何かじわじわ可笑しい。ロボの松山ケンイチとニコ大後寿々花との掛け合いが、妙にくすぐったくて楽しい。
松山ケンイチは、デスノートのLとは全く別人。異常にテンションが高く、とってもピュアな感じがいい。

いい役者は、沈黙している時、雄弁に本質を表現するものだが、この二人も13歳と22歳なのに、とっても深い表情をする。(オーディションにおいて、角川春樹が松山ケンイチを評して「薬師丸ひろ子や原田知世を発見した時より震えた」とコメントしたらしい)

中島みゆきのシングルコレクションという3枚組CDを買った。20年ぶり位に聴いた、「孤独の肖像」であるが…。深夜、ベランダで煙草を吸いながら、フル音量で、うずくまるように聴いている。聴くと落ち込むのだが~救いが全く無い歌詞なので~でも、聴かずにはいられない。もう数十回…。あることに気付く。

5分38秒の曲は、殆ど同じ歌詞同じメロディーのリフレインに次ぐリフレイン。1番とか2番はない、切れ目もない。「海の底にいるような孤独」を、ひたすら叫び続ける

全然まとまりがなくて恐縮だが、鈴木重子のアルバムも中島みゆきと同時に購入。こちらにもはまっている。中でも蘇州夜曲。アカペラでワンコーラスだけ。服部良一の名曲である蘇州夜曲は、多くの歌い手にカバーされているが、こんな表現の仕方を選択するのか…とただ感嘆。

俳優にせよ歌手にせよ、本物の表現者にはon the edge感がある。

極めて不安定な状況下で、何かを表現することによってのみ、正気を保ち、救われる感じ。一種の狂気がある。表現する必然性や強い理由があって、はじめて人の心の奥底に、何かを伝えることができるんだろう。

一流の表現者になり得るには、どういう経験が必要なのだろうか?持って生まれた才能なのだろうか?凡人には全く見当もつかない。

そういう意味では、俺は嫌になる位何もかも平凡だ。過剰で異常でなければ、何かを創造できないとしたら、俺にはとっても無理だ。常識と知性が邪魔をしてしまう。これも、また辛い。


2007年05月14日

敗者からみた歴史

歴史は勝者によって創られる。よって、後世の人間にとって、勝者は殊更に、素晴らしく、敗者はみじめで、無能で、あたかも、勝敗は、必然であったかと思われるような印象を与えがちである。

残っている史料は、勝利者もしくは勝利者におもねる人間によって書き残されたものであり、死人に口なし。よって、史料第一主義で、歴史を捉えると、勝利者の仕掛けたトラップにはまることもある。

石田三成などは、算盤勘定は得意だが、武将としてはからっきし駄目で、おまけに高圧的で、人気がなく、視野が狭く、老獪な家康に翻弄された挙句、関ヶ原におびき出されて、粉砕された…というかわいそうな位,酷い評価が与えられている。

「敗者からみた関ヶ原合戦」(三池純正著 洋泉社)という本を読んで、これまでと違う視点で、三成と家康を捉えることができた。

著者は、アカデミックな歴史家ではない。アプローチも、関ヶ原を調べるために、実際関ヶ原に行き、南宮山に登り、松尾山から古戦場を眺めるなど、史料第一主義ではなく、実際の現場の風を感じながら推論を進めている。

調査により、彼は、西軍陣地の近くに、大規模な土塁が今現在残されている事を発見する。これらと、残っている書状などの史料から判断すると…。
三成は、事前に中山道、北国街道を封鎖し、自陣の前面に巨大な土塁、柵を築き、松尾山の山下には、強力な陣地を構築していた。つまり、最初から関ヶ原で、家康軍を粉砕すべく、この地におびき出した…ということになる。

輝元・秀頼の出陣をあきらめ、また立花宗茂など精鋭1万5千の到着をまたずに、関ヶ原に着陣した理由が、この精緻に創りこんだ陣地への兵の配置を完了するためであったのだろう。

著者が確認すると、毛利軍の位置した南宮山からは、関ヶ原をみることはできない。また、関ヶ原に到達するまで、1時間も必要とする。栗原山の長宗我部軍も同様で、そういう意味では、戦いが始まる前から、2万を越すこの軍は、最初から戦闘的には計算外であった。

本来、毛利輝元が秀頼を連れて入城するはずであった松尾山という最重要地を、裏切り必至の小早川に奪われてしまったのが、最大の誤算ではあるが、それにしても、実兵力でいえば、ほぼ倍である東軍を押しまくり、小早川秀秋の裏切り後も、赤座・朽木などの諸将の裏切りまでは、優勢であった事を考えると、関ヶ原決戦は、三成の当初から練りに練った作戦という著者の見解もうなずける。

豊臣を裏切り、東軍についた大名の多くは、余り時間をおかずに、殆ど取り潰しの憂き目にあい、その後の消息もわからないものが多い。

それに対し、三成の長男、次男、妻、兄の妻など石田家の人間は、何の咎めを受けることなく、今に繋がる血脈を保っている。関ヶ原戦で最も奮戦した石田家の侍は、他家から高禄で召抱えられえるものが多かったという。

敵は皆殺しで根絶やしにする戦国の世で、家康の擦り寄った者たちに対する冷徹さと、三成の子孫、関係者に対する寛大な処置は、三成に対する評価の高さとリスペクトをあらわしているとはいえないだろうか?

勝負は、幾つかの偶然の組み合わせで、決定され、家康も三成も同じレベルで運命と闘っていた。関ヶ原の戦いに全てを賭け、佐和山城には何の蓄えも残さなかった、三成の潔さ、純粋さを家康は愛していたのだろう。関ヶ原以降、家康の長男である結城秀康は、三成からもらった名刀正宗を、「石田正宗」と称し常に着用していたとのこと。これも、家康の三成に対する愛情への傍証にはなるだろう。

敗者と勝者を分けるのは、紙一重の違い。勝者は、それを雄弁に美しい物語へと膨らませることができるが、敗者はただ沈黙するのみ。敗者の声なき声を聞く努力をしないと本当の歴史は見えてこないだろうし、その為には、実際、彼らが戦い敗れた場所に行き、同じ空気を吸うところから始めなくてはいけないのかもしれない。

2007年05月12日

「親学」など学びたくない

俺は、はっきり言って子供は大嫌いだ。

身勝手で、残酷で、無神経で、我儘で、無学で、未成熟で、社会的に害悪しかもたらしはしない。しかし、そんな俺でも、自分の子は可愛い。というか、自分の体の一部である。(不随意筋です)

大学生と中学生の子供がいるが、殊更に教育的であろうとしたことはない。子供が生まれてから、余り多くの時間を彼らと過ごしたことはないし、話しを凄くしているわけでもない。

所謂、家庭サービスなるものは、言葉からして、反吐がでるほど嫌いなので、全くしたことはない。休日、疲れた顔した父親が、家族を行楽地などに連れて行く光景などTVニュースで観たりするが、全く理解できない。「アホか」といつも思う。

俺が、留意しているのは、俺が不愉快に感じること、間違いだと思うことには、はっきり「不愉快だ」「間違っている」と伝えること。俺が、俺自身が納得できる自分であリ続けること~常に前向きで、言い訳をせず、問題から逃げずに、真正面から対決すること。

マーメイドの話によると、そういう父親の影響力は、一緒にいる時間が短いにも関わらず、極めて強いらしい、良きにつけ悪しきにつけ。結果からいうと、学業成績とか精神的なタフさとか、言いたい事は多々あるが、俺としては、「結構悪くないんじゃないか」と思える。問題は、性格の根っこの部分が俺に良く似ていることだ。

俺は、父親と暮らした記憶があまりないので、家庭内での父親のあるべき役割が実際さっぱりわからない。だから、自分が向上心をもって生きているところをみせる…というアプローチしか結局はとれなかったのだと…今は思っている。(別に意識して、そうしたわけでもないが)それが正しいのか、間違っているのかは、まだわからない。未だ実験中。

親と子供の関係は、夫々の家庭によって違う。正しい親であることは、教えられるようなものではない。

政府の教育再生会議が「親学」というものを提唱している。内容は、「子守唄を歌い母乳で育てる」「乳幼児期に本の読み聞かせを行う」「早寝・早起き・朝ごはんの励行」など…らしい。

核家族化や価値観の多様化など、色々な要因で、家庭教育、公的教育ともに、危機的状況であるという認識は、理解できる。その改善の為の方策が、「母乳」と「子守唄」と「早寝早起き」か?以前、「塾不要論」とか、仰っていたこの再生会議だが、この「親学」に至っては…。

この「親学」提唱は、結局、「個人生活にかかわることなので慎重な議論が必要」との意見や、政府内からも「単に言いっ放しでは意味がない」という声がでたため、公表は見送られたらしい。

公表を見送った理由は、「個人生活にかかわることなので慎重な議論が必要」、「単に言いっ放しでは意味がない」ではないだろう。レベルが低いから…の一点に尽きる。(レベルが低いことについては、説明をするまでもない…でしょう)

以下は、教育再生会議のメンバーの方たち…

浅利慶太 劇団四季代表・演出家 ○ 池田守男   株式会社資生堂相談役 海老名香葉子  エッセイスト 小野元之   独立行政法人日本学術振興会理事長 陰山英男   立命館大学大学教育開発・支援センター教授、立命館小学校副校長 葛西敬之   東海旅客鉄道株式会社代表取締役会長 門川大作   京都市教育委員会教育長 川勝平太   国際日本文化研究センター教授 小谷実可子  スポーツコメンテーター 小宮山 宏  東京大学総長 品川裕香   教育ジャーナリスト 白石真澄   東洋大学経済学部教授 張 富士夫  トヨタ自動車株式会社会長 中嶋嶺雄   国際教養大学理事長・学長 ◎ 野依良治  独立行政法人理化学研究所理事長 義家弘介   横浜市教育委員会教育委員、東北福祉大学特任講師 渡邉美樹   ワタミ株式会社代表取締役社長・CEO、学校法人郁文館夢学園理事長

2007年05月10日

阪神九連敗、それがどうした

俺は、既に35年以上阪神ファンをしている。我々阪神ファンは、一応太陽系の住人であり、霊長類ヒト科に属しているとされる。

しかし、ズバリ言おう、我々は一般大衆を超越した存在である。ロビンのようにクールで、ゾロのようにセルフコントロールが効き、サンジのようにお洒落なのだ。


名前は忘れたが、確かアルファベットのGから始まる名前のチームのファンと違って、勝ち負けで一喜一憂するような、単純かつ品性に欠けることはしない。

阪神ファンは、無償かつ無制限の愛情と寛容さに溢れているのである。

9連敗したからと言って、どうしたというのだ?何か問題があるとでもいうのか?北朝鮮がテポドンでも発射するのか?


~軍とか、名乗っているチームのファンと違って、ミスした選手を攻撃したりしない。

阪神ファンは、美を追求しているのだ。

9連敗したからと言って、どうしたというのだ?90連敗したわけでもあるまい。
藤川だって打たれることはある。で、打たれたから一体どうしたというのだ?あんなに美しいストレートを放るピッチャーが、存在するのか? もっと、鋭敏な美意識をもて。

名前がどうしても思い出せないが、夏になると、何故か涼しい東京ドームでばかり試合をするチームのファンは、監督の采配にも、色々物申したりする。

阪神ファンは、右脳で試合を捉える。左脳はすてる。イメージなのだ。

9連敗したからといって、岡田の采配が云々など、意味のないことはいわない。
岡田は、元々左脳はおろか、右脳すら使っていないのだ。前日ホームランを打った、林を外して、濱中を起用する。ひらめきだ。

球団名はど忘れしたが、大金はたいて、よそのチームの主力を買いあさる、浅ましいチームのファンは、一位でないと、気が治まらないようだ。

阪神ファンは、記録より記憶なのだ。

9連敗したからといって、切羽詰らない、余裕たっぷりの今岡を、1Aに降格されたのに、ご機嫌で手を振る井川を、旨いビールを飲むためにマウンドに上がり続けている下柳を、その他順位など何処吹く風でマイペースな選手達を、この眼に焼き付けるのみ。


だから、しつこいようだが、とにかく、俺は、全く、これっぽっちも、微塵も、九連敗なんて気にしていない。全然、気にしていないのだ。 ホントだ。 (くそ~ムカついて眠れそうにない)

2007年05月08日

300日問題はやりきれない

今年のGWは、俺の人生の中で経験した、どのGWと比較できないユニークなものとなった。

結局のところ、5月6日まで、回復せず、①食事をする、②ドクターに頂いた大量の薬を飲む、③寝る→①に戻る…を、ばっちり繰り返すことになってしまった。

今日から出勤。帰宅をしてニュースをぼんやり眺めていたら、「300日問題、法務省通達へ」という報道に目が止まる。

これは、民法772条「嫡出の推定」に関わる件である。離婚後300日以内に出産した子を一律に「前夫の子」とみなす民法規定(嫡出推定)。現行制度の問題は、「前夫の子」でないことがはっきりしていても、嫡出推定を覆すには家庭裁判所での手続きが必要となる点。さらに、裁判で認められた場合も、戸籍には、いったんは「前夫の子」と推定されたという記載が残ることも問題視されている。

今回の措置で、離婚後に妊娠したことが医師の証明書で確認できれば、実際の父親の子として出生届を認める通達を全国の市区町村の戸籍窓口に出した。この特例措置は今月21日以降の出生届から実施される。

ただ、この「離婚後に妊娠した」ケースは、当該離婚後300日以内に出産したケース全体の一割に過ぎないらしく、この法律の問題点が解決されたわけではない。離婚後に妊娠という制約がついた原因としては、「貞操義務、性道徳という問題も考えなければいけない」(長勢法相)という判断からだ。

公明党は「家庭内暴力(DV)で離婚手続きがやむを得ず遅れ、離婚前の妊娠になってしまったなどのケースを救うことを重視すべきだ」と主張するが、自民党では「離婚前の妊娠はあくまで例外で、認めれば家族制度が崩壊する」という声が根強い。当初、与党プロジェクトチームが目指していた、離婚前の妊娠でも、出産時に再婚していればDNA鑑定で「再婚相手の子」と認める特例措置を設ける議員立法が見送られることになったのも、自民党の反発が強かったためとのこと。

一連の、法改正反対の動きは、非常に筋道が通っていない気がする。

この法律は、離婚後300日以内に生まれた子は離婚前の前夫の子と推定することを定めた民法772条の規定。早期に戸籍を確定し、扶養義務を負う父親を法的に明確化することで、子の権利を保護するのが、本来の目的だ。

つまり法の精神は、「子の権利を保障する」ことであって、「家族制度の維持」「貞操義務、性道徳」とは、本来無関係である。現在、DNA鑑定により、実際の父親は、簡単、スピーディに、明確に特定できるのであるから、離婚前の妊娠であろうが、なかろうが、正しい届出(「再婚相手の子」や「非嫡出子」としての届け出)を奨励すべきである…のは当たり前ではないのか?

例え、不倫のグチャグチャで、酒池肉林のドロドロで、子供が生まれたとして、親でもないオッサンの子供として戸籍に記録されたり、子供に不利益を生じたりする状況を容認すべしという話は、「子の権利を保護」という本来の目的にもかなわないし、子供の観点からすれば、単なる社会的な嫌がらせではないのか?不倫の末に生まれた子供には、それ位の厳しい処置を背負って生きていけとでもいうのか?ペナルティが必要なら、親に課せよ。

大体、自民党だとか、法務省の爺さんが言っている「家族制度の維持」「貞操義務、性道徳」って一体何なのだ?何を守りたいのか?何を罰したいのか?

離婚前の妊娠を認めたことによってこれら「家族制度の維持」「貞操義務、性道徳」は、崩壊するらしいが、もし、それが本当に社会的に死守しなくてはならないものであれば、この民法772条を本来の目的とは違う使い方で、適用するのではなく、不倫による妊娠を罰する法律を正々堂々立法を目指したらどうだ。(勿論、それで生まれた子供には支障ない形で)

1946年制定の野球憲章に従って、2007年の世界を破壊しようとする高野連。1898年制定の法律を使って、しかも法律の精神とは違う使い方で、「家族制度」「貞操義務、性道徳」(って何を意味しているかが、本当のところさっぱりわからないが…)を守ろうとしている人々。彼らは、恐らく自分達こそ正義だと思っているに違いない。

でも、俺の理解力と常識に照らすと、両者とも間違っていると思う。間違っていて、正義でもないことがまかり通る社会というのは、やりきれないと思う。寝たきりで終わった、俺のGW以上にやりきれない。(実は、デッサンの練習をしようと思っていたのだった)

2007年05月03日

体調不良のGW

4月30日の夜から発熱、咳。5月1日に無理して、打ち合わせに行ったら、益々悪化してしまい、昨日、今日は、完全に寝て過ごした。

平熱が35度台と、爬虫類もびっくりの低温なので、37度7分なんてみると、それだけで、失神してしまいそうになる。

GWは、あれもやろう、これもやろうとか予定していたのに、もう3日しかない。本調子に回復するまでには、GWが全て終わってしまいそうだ。

実際、風邪と疲労らしいので、医者から薬をもらって寝るしか方法はないのだが、ず~っと寝るのも、それはそれで、非常に大変。

まず、背中が痛くなる。仰向きに寝ようが、どの向きに寝ようが、数十KGの圧力が背中にかかり、かつ寝返りをうつと、摩擦が起こるので、1日半も寝ていると、背中の腕のつけ根あたりが、かなり傷んでいる。肩も、首筋もこってくるし、腰のあたりがうっ血している感じがする。寝たきり老人って、本当にシンドそうだし、介護はもっと大変そうだというのを、身をもって感じる。

一番困るのは、やはり、退屈ということ。風邪気味でちょっと熱っぽい時に、ダラダラ寝るのは、案外気持ちの良いときもあるが、それも程度というものがあって、今回のように、ずっと寝ていると、実際のところ全然眠たくはない。でも、頭は熱っぽくて、ぼうっとしていて、本は読めそうにないし、文字もかけそうもない。健康でないと、生産的、創造的なことは、全く出来ないんだなあ…と痛感いたしました。

で、この状態で、できる退屈しのぎの方法というのは、一つしかなくて、それはテレビをみること。

朝のワイドショー、ドラマの再放送、料理番組、ニュース、昼のワイドショー…。何の努力もせずに、意志の力ゼロで、時間つぶしをするのに、こんなに最適なマシンは他にない。でも、本当につまらない。同じ報道ばかり(中国にある、ディズニーランドのキャラクターやドラえもんやキティをパクッた遊園地の報道は、まじで10回は観てしまった)

テレビ番組というのは、視聴率を極大化するために、色々手を変え品を変え、視聴者にアピールをしているのかと思っていたのだが、ここ数日間の感覚からいうと、どのテレビ局も全く同じニュースやトピックを同じように取り扱い、殆ど区別も出来ないくらいだ。コンテンツが元々同じだから、後は誰が伝えるか位しか、差別化要因がない。そういう意味では、みのもんた、女子アナは、視聴率を稼ぐためには、重要なファクターなんだろう。

この、午前7時から~午後5時くらいまでの各局のラインナップというのは、熱があってテレビを見るしか何もできない人間以外の誰にとって価値のあるものなんだろう。全く、そのあたりは想定もつかない。