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2007年04月29日

「千の風になって」&「ふるさとの山にむかひて」???

「千の風になって」という歌が、流行っていたが、何故か素直に共感できない気持ちでいた。

「千の風になって」は、オリジナルタイトル"Do not stand at my grave and weep"~私の墓の前でなかないでください。原詩の作者は不明だが、ナチスドイツから逃げてきた亡命者が、ドイツに残してきた母の訃報を知り悲しむ親友を慰めるために書いたといわれている。

その後、イギリスではIRAのテロで亡くなった24歳の青年が「ぼくが死んだら開封してください」と両親に託していた封筒に、その詩が残され、アメリカでは2002年の9月11日、前年の同時多発テロで亡くなった父親を偲んで11歳の少女が朗読したという、感動的なエピソードがある。

新井満氏が、友人の奥さんの追悼文集を通してその詩を知り、感銘を受け、残されたお子さんを慰めるために日本語詞に意訳しメロディーをつけ、プライベート盤として自主制作した。これが天声人語等様々なメディアで話題となり、問い合わせが殺到。

以上が簡単な経緯だが、新井氏は、「千の風」で歯磨き、化粧品、ビール、清涼飲料水、犬小屋など多岐に渡り、商標登録の権利者となっているらしい。その商標利用料は、千の風・基金というものに、全額寄付されているとのこと。ただ、詳細については、公開されていない。新井氏の奥さんがウェブ上で「命を守る貢献活動に使われることになっている」と書いているが、そもそもどういう基金で、どれ位お金を集めて、何に使っているかは、不明のようだ。

今日の日経新聞に、新井氏が寄稿している「啄木、100年目の帰郷」を読んで、更にしっくりこない感が強まった。この文章の粗筋を簡単にまとめると以下。

・新井氏はもともと石川啄木のファンである。 ・啄木は、故郷を石もて追われる如く上京し、失意のまま死去

・新井氏は、啄木の帰郷の夢を何とかかなえてあげたい、せめて啄木の魂を音楽の翼にのせて、故郷の山河に返してあげたいと思うようになった

・新井氏は、啄木の短歌のなかから、望郷をうたったものを選び出しメロディーをつけて歌唱することとした。

・そのさい、歌詞となる原文は活かす、「あ~」「う~」といった詠嘆や感嘆から生じるルフランだけは容認することをルールとした

・新曲「ふるさとの山に向かひて」が誕生(3月末にCD発売、6月には組曲「ふるさとの山に向かひて」が発売

・啄木の魂を気持ちよく帰郷させるために、啄木が教鞭をとったゆかりの旧渋民尋常高等小学校旧校舎に、地元の子ども達を集めて録音を行った。

・その録音のときに、新井氏は啄木の気配を感じる。そして、ある児童は驚いた表情で「歌っていると、千の風になった啄木の霊が吹いてきて、少し緊張しました」と感想を述べた…

ある作品、人物のエピソードに感銘をうけるのは、理解できる。アーティストであれば、それに触発されて歌を作ったり、絵を描いたりするのもわかる。プロのアーティストであれば、それで商売するのもOKである。

感動ストーリーを全面におしたてて、題名をキャッチーなものに変え、更に意訳を施して、シンプルな12行の詩をCD化し、口コミで話題を作ってヒットさせ、広範囲な商標登録を行う。しかも、あくまでも何か、非営利的活動であるかのような雰囲気を保って。(商標登録の手際のよさは、まるで代理店や商社の仕込みみたいではないか)

啄木の歌に関しても、新井氏は、2つのルールを守るといいながら、こう述べている。
・「渋民村は恋しかり」の部分は、「恋しかり」を強調して「恋し、恋し、恋しかり」とした。
これが「感嘆から生じるルフラン」なのだろうか?川内康範先生だったら。ひと言物申すに違いない。

旧校舎に、啄木の魂が戻ってきたところで、この話は完結のはずなのに、CD化し(旧校舎での録音前に発売されている)、6月には組曲まで発売してしまうのは、何故?

経緯をならべてみると、「千の風…」も「ふるさとの山…」も手法が酷似している。胡散臭さを、どうしようもなく感じるのは,俺だけなのだろうか(大ヒットぶりをみると、どうも俺だけみたいだが)

「千の風…」と「ふるさとの山…」をリンクして考えているのは、新井氏自身もそうなのだろう。日経寄稿文の最後を締めくくるエピソードが、「歌っていると、千の風になった啄木の霊が吹いてきて、少し緊張しました」という「ある児童」のコメントなのである。

もしこれが、事実とするならば、かなりオトナに媚びた嫌なガキだが、それよりも文章の最後に、このエピソードを据える新井氏のメンタリティ自体に、非常に下卑たものを感じる。(これも、俺だけか?)

マンウオッチング

昔からぼんやりマンウォッチングをするのが、好きだ。

人見知りする癖に、人についての興味は昔から強い。職種の特徴だと思うが、社内外の人と色々話しをすることが多く、更に人に対する興味が深くなっていることに気付く。

学校を卒業して直ぐ勤めた会社の先輩は、「俺は、言葉など全く信頼していない。相手の行動でしか評価しない」と言っていた。

何と偏狭かつ傲慢な態度であろうか…とそのときは思ったが、今は、一面正しいと思う。つまり、言葉と行動両方みないと、人間はわからない。もっと正確にいえば、言葉の切れ端、行動の切れ端から、何かのサインを読み取って、深く考えて、やっとその人間の本質の、ごく僅かな部分が何となく理解できるということ。

人間は、本当に難しい動物だ。自分の事を嫌いという人間に限って、過剰なまでの自己愛にどっぷりつかっている。馬鹿だと自分のことを評する人間は、高いプライドと優越意識をもっている。表面上、思いやりのあると思われている人間が、酷薄であったりすることも多い。普段の顔は、綺麗でも、笑い顔は卑しかったり…。

表面にあるものの底には、想像を絶する深いものが隠されている。そして、本当に理解しようとするならば、この深みに入っていくしかない。

最近思うことは、この相手を理解していく行動は、傍観者や評価者としてのマンウォッチングでは、ありえず、もっと主体的なものであること。つまり、俺は、自分のことを多くの人に理解してほしいと痛切に思っていて、その裏返しが人への興味となっていることに気付いた。

かなり長い期間、自分勝手だとか、言い出したら聞かない、頑固でマイペースなどといわれ続けてきたし、自分でもそう思い込んでいた。しかし、最近はっきりわかったことは、俺は、多くの人に自分のことを理解してほしいし、好きになって欲しい、評価をして欲しいと非常に強く思っているということだ。人の感情に無関心でマイペースを装うのは、単に受容されなかった場合の防衛行動をとっているだけだ…と。つまり、俺は凄く女々しい男なのだが、それをギリギリのところで、微量だが存在する男性ホルモンの分泌で何とか体面を整えているだけなのだ。

俺は、会社の人とのコミュニケーションの中で、どうしようもない闇にぶち当たる時がある。その時、「これは既に社長が踏み込む領域ではない。カウンセリングの領域だ」と思う事も多かった。でも、これも単なる言い訳に過ぎない。ただ、踏み込むことが怖かっただけだ。そして、それは自分の本質と対峙することへの恐怖と同義なのであろう。

社長業6年目にして、やっとある集団のリーダーになる一次試験に合格したような気がする。それは、人間と真正面に向き合う、そして弱い自分を凝視し乗り越える勇気をもてたということに他ならない。

2007年04月26日

アートな男

日曜日に、久々美術館に行った。

非常に広くて、綺麗な美術館で、前庭には芝生が広がり、白い丸テーブルと椅子が幾つか置かれている。休日の昼下がり、家族でのんびり過ごす人もおり、非常にリラックス。

展示は、「三沢厚彦 アニマルズ+」というもので、気鋭の現代彫刻家、三沢厚彦の作品を紹介している。楠の丸太から切り出された、彼の作品のモチーフは動物。

圧倒されるのは、この作品が実物大であること。象も、キリンも、一角獣も、犬も、ネコも実物大なのである。幾つかコーナーがあって、ある部屋では、数十匹の犬の彫刻が、全て同じ姿勢で、同じ方向を向いている。また、通路を進むと、今度は全く違う動物、それこそ象からリスまでが、色々な方向にむかって、前方を凝視する彫刻が数十展示されている部屋へ。

ノミの跡が荒々しく残る上に、割とリアルな彩色がされており、不思議な存在感を、どの作品も漲らせている。

俺が、一番興味を惹かれたのは、顔が平面的で、かつ子供がみたままを書いたような、シンプルで生気に満ちた夫々の「顔」。色々な角度からしげしげ観たが、飽きがこない。

で、その時、いきなり雷鳴のごとく確信は訪れた。「平面的かつ顔だけを描くのであれば、俺も、凄いものが描けるのではないか?」「そういえば、グラスの底に顔があって何が悪い…位だから、どんなものでも顔がある」「よし、描くぞ、描くぞ、描くぞ」

ということで、帰りに白い無地のノートとクレパスを早速購入し、毎日一つづつ「顔」を書いている。(昨日は「猿」その前は「白熊」)

俺の書く「顔」は、また何ともいえない味があって、いい出来なんだな…。クレパスのかすれ具合といい、こすってボヤっとした感じといい、微妙な色彩が表現され、平面的な顔なのに、非常に奥行のある世界が、ど~んと広がる…とマーメイドに、かなり熱っぽく語っているのだが、まだ共感を得るには至っていない。

三沢君の芸術家魂が、小学校4年生のときに、東京芸大の教授に絶賛を浴びて以来、長い間眠っていた俺の溢れんばかりの画才を、見事に覚醒させたのであった。

だから、諸君は、俺の事を、アーティストもしくはアートな男と、呼んでも一向に差し支えないのである。アートと言っても、アート引越しセンターではない…なんていう親父ギャグも、切れ味抜群だ。

2007年04月24日

高校野球における特待制度の廃止について

高野連が、特待制度が学生野球憲章に抵触するとして、各学校に中止を求める事を決定した。

その理由は、
・高校野球は、特に教育の一環としての活動を強調しており、特待制度は未成年の高校選手を野球偏重の生活に導きかねない…ということらしい。

この学生野球憲章なるものは、何と1946年、つまり第二次大戦直後に制定されたもので、「選手または部員であることを理由に学費、生活費など金品を受け取ることが出来ない」と定めており、今回は、この条項に照らして、違反する学生は、5月中の活動は停止となる。

俺は、この動きに関して全く理解できない。

まず、高野連なるものが振りかざす学生野球憲章は、当然の如く野球部員のみに適用されるわけだが、サッカー、ラグビー、卓球、陸上などの特待生はどうするのか?野球とは関係ないから、ワシャ知らんか?野球をやっている子だけ、特待生廃止という不平等な状況は,教育的観点から極めてまずい。

また、高野連の爺さんは知らないかもしれないが、遠征試合、グラブ、バット、食費、寮費など、スポーツを本気でやろうとすると、金がかかる。貧乏人は、野球はやめとけってか?

特待制度と野球偏重とどういう関係があるのか?もしあるならば、学業レベルについても、条件をつければいいだけだ。学業偏重で受験勉強ばかりしている奴より、野球を一生懸命やっているほうが、よっぽどマトモだろう。

更に、高く跳べる、速く走れる、速い球が投げられる、遠くに球を飛ばせるなどは、英語が出来るとか数学が出来ると同様な才能であって、それを伸ばしていくことの何が悪いというのだろうか?国数英理社以外の才能に対するリスペクトが欠如しているのではないか?何かに打ち込むことを「偏重」と呼ぶのであれば、どの領域でも、大したタマは、日本からは出てこない。

高野連というのは、一体何の権限があって、こんなアホみたいなことを強要できるのか?一体、どういう人たちが牛耳っている集団なのだろう。各高校野球部は、こういうくだらない連盟からは脱退して、新しい甲子園大会を開催したほうが、よっぽど真っ当に思える。

2007年04月21日

風林火山には、頭がクラクラする

最近はまっているドラマが風林火山。

歴史大好きなのだが、どうも最近の大河ドラマは、変に現代的価値観を持ち込むことが多く、妙に醒めていたりした。「NHK史観」(というものがあるのかは知らないが)では、戦国大名が、平和主義者だったり、反戦思想だったり、マイホーム主義者だったりする。また、草履取りが成り上がる様を、サラリーマンになぞらえたり。

言うまでもなく、その時代には、その時代のルールがあり、文化があり、価値観があるわけだから、現代と同じ物差を持ってこられても、どうにもしっくりこない。

今回の風林火山については、そういう姑息なところがないのが、まずいい。

次に、良いのが、配役。特に、主人公山本勘助役の内野聖陽、武田信玄に歌舞伎俳優の市川亀治郎、重臣板垣信方役の千葉真一が、凄い。

内野君の面構えとか、目の鋭さとか、ニヒルに笑った時の凄味。実在の人物かどうかすら疑われたことのある天才軍師山本勘助については、隻眼で片足が不自由だという以外余り一般的なイメージはないのだが、熱くて、冷酷で、苦みばしって、粘着気質な新しい山本勘助像を創造している。

今回の最大のヒットは、亀治郎。リアリティは、まるでない。歌舞伎の発声、表情、所作を、若干抑制はされているが、そのままテレビに持ち込むという、ホント大胆な実験放送です。

ひと言ひと言をためる、ためる。よく、現代劇で、ナチュラルな演技をしようとして、ぼそぼそっと喋るので、「え、何を言っているかわからない??」ってことがあるが、亀治郎には、そんなことはない。口跡がくっきり、はっきりである。
動きも、なんというか、驚き、怒り、哀しみなどを類型化して、示す~まあ、つまり大仰なのだ、いちいち。その上、必ず、目を剥いて見得を切る。

で、その他の役者と亀治郎の演技は、明らかに、どうしようもなく、隔絶していた。当初は。

千葉真一は、今回は柳生十兵衛役ではないし、服部半蔵役でもない。ただ、芝居としては、同じ。とにかく、重い。普通じゃないくらい重い。俺が、密かにゴールデントライアングルと呼んでいる、内野、亀治郎、千葉の3者の絡みは、重くて、クサい、大仰で、やたら声が大きい~けれども、最近のTVドラマでは、滅多にお目にかかれない位、濃密な異空間が広がるのは確かで、毎回頭をクラクラさせながら観ている。

回をすすめるごとに、このゴールデントライアングルに引きずられる形で、他の役者の芝居もどんどん重量感を増して来ているので、亀治郎も浮かない。目を剥きすぎだ、佐々木蔵之助。

激しく時代がかっているのだが、いいじゃないか時代劇なんだから。

(一点問題なのは、しかも深刻なのは、ヒロイン由布姫役の柴本幸。由布姫は、強くて、凛としていて、オーラが強烈な美女でなくてはいけないのだが、どこからどう見ても余り美しくもなければ、オーラもない。今ならまだ間に合うので、綾瀬はるかに代えて欲しい…と強く願っております)

男の悲しい性についてのマーケティング的考察

今日、会社の人と雑談中に、男というのは、本当に悲しい動物だ、という話になった。

つまり…可愛い子には、ちやほやする。若い娘には、ご機嫌を取る。可愛くて、かつ若い子には、これらの傾向が極めて露骨に表れる。

だが、この対象の若くて、可愛い子に、好感をもって受け入れられる確率は極めて低い。 バッサリ斬ると、エネルギーの無駄遣い。

更に愚かなことに、可愛いくて若い子が複数名いた場合、どの子とも、仲良くなりたい、好きになって欲しいと渇望し、皆に愛想を振りまいてしまう。が…結果は、全員からも、総スカンという最悪な状況に陥りがち。何と悲しや、男の性(サガ)。

有史以来繰り返される、上述したような男の悲しい歴史を、マーケティング的切り口で捉えると、一体どうなるのか?

マーケの教科書には、色々なことが書いてあるが、煎じ詰めるとたった一つのメッセージに集約される。それは、「ターゲットユーザーとターゲットユーザーへの提供価値を明確に定義し、適切な方法で、その価値を表現すること」

このメッセージに照らして考えると、可愛くて若いというセグメントの切り方が、そもそも粗過ぎる。クローズした環境下で、複数の女の子にアプローチした段階で、夫々の成功確率はかぎりなくゼロに近づく。ゼロは幾つ足してもゼロなのである。

(ユーザー同士が、コミュニケーションとれない、異なるマーケットであれば、複数ターゲットにコンタクトしていくのは、倫理上の問題を除けば、何ら問題はない)

ユーザー集団の中から、特定のターゲットに集中すべきなのである。つまり、フォーカスストラテジーをとるべし。ただ、この対象を一つだけピックするのは至難の業。自分が本当に求めているものを明確に認識している人間は、案外少ない。

提供価値とその表現方法という観点から言えば、「ちやほやして、愛想をふりまく」状態というのは、ちやほやしている方が喜んでいるだけで(舞い上がって、自己を見失っているだけ…とも言う)、されるほうのPerceived Valueはゼロである。(マイナスという場合も多々ある)

相手の身になって、何をすれば喜んでくれるのかを考えて、誠実に適切な行動をする…などという真っ当なことが、求められる。

プッシュで行くか、プルで行くか?も難しい問題。

ユーザーの行動特性、趣味嗜好などを充分、分析する必要がある。このあたりは、トライアル&エラーアプローチが一番有効であろう。「押しても、駄目なら引いてみろ」というのは、至言だ。

市場で勝つためには、stucked in middleと言われる、「どっちつかず」の状態が最悪で、何か際立った競争力のある特徴やら魅力が不可欠といわれている。
その競争力というのは、継続的に有効でないと、ユーザーのロイヤリティを維持できないので、常に商品・サービスをブラッシュアップする必要がある。
(年金離婚なんていう現象は、結婚生活の中で、惰性、馴れ合いになって、自分を磨くということをストップしたため、結婚当時にあった魅力が失われていった結果なんだろう。)

他の人に好かれるには、そして好かれ続けるには、まず自分の事を正しく認識し、良いところを伸ばしていく…というような地道な積み上げが必要なんだろう…深いなあ。

みもふたも無い話だが、マーケティングの方法論としては、正しくても、上手くいかないケースは、確かにある。それは、元々の商品の品質が悪い場合。まあ、こういう場合は、禅寺にでも行って、自らをブラッシュアップするか、へそ噛んで死ぬしか方法はない…のかしら。

書いていて、つくづく思うのだが、マーケティング観点から、面白半分に、男の性を分析した結果、導き出されるのは、かなりマトモな課題だったりする。そして、どの課題も、真摯に自分と向き合い、啓発に努め、相手の事を心から思いやり、尽くしていく…といった厳しい行動規範の確立に帰結する。

(マーケティングがそうであるように)可愛い女の子に好かれるというお題は、サイエンスとアートの両方を要求する凄く複雑で、地道で、難解なゲームなのかもしれない。

2007年04月20日

聖なる場所

うちの息子は野球をやっている。小学校一年から始めて現在中学校3年。放課後の練習、土日は試合。家に帰ってからも、素振りをかかさない。

本人の意識では、野球をするために中学に通っているという認識。野球推薦や特待生制度がなく、かつ甲子園に行く可能性のある野球部を有する高校に、行きたい、しかも激戦区神奈川県で…というご希望。こういう基準で、進学先を選ぶ奴がいるとは、全く思いもしなかった。しかも、自分の息子とは。

で、俺は春、秋、夏の大会で、ベスト16に入った高校のうち特別なスカウト制度がなく、野球部員が少なく、大学にも進学できそうな学校で、通学時間が短い高校をピックアップしたりして、ホント涙ぐましい話。(俺の母親は、楽だったよなあ…とため息をつく)

小学校5年から、ショートを守っていて、小学校の指導者に言われた事を今でも忠実に守り、守備位置につく時、守備が終わってベンチに戻る時、必ず全力疾走。定位置は、通常の遊撃手よりも、かなり深めにとり、投手の投球動作にあわせて、静かに前傾姿勢をとるところも、5年生から変わらない。で、俺は、とんだ親馬鹿で恐縮なのだが、彼の守っているところをみるのが、とっても好きなのである。

一度、6年生のときに、試合後泣き出してしまったことがあって、それは、点差の開いた最終回の守備で5年生に代えられた為。怪我で二試合休んだ以外、二年間全イニング、ショートを守っていた彼にとって、ショートは特別なポジションで、一イニングたりとも、他の人間に守らせたくなかったらしい。

俺は、気が弱い息子に、こんな激しい気持ちがあることに、かなり驚いた。で、ここでも親馬鹿を発揮して、監督のところへ行き、「全イニングショートを守るのが、彼のプライドなので使ってくれ」とお願いをしたのだった。

今週の土曜日は、春の大会が始まる。この大会と夏の大会が終わると、中学校での野球は終わる。中学入学時150センチちょっとだった身長も、いつの間にか170センチ近くなった。

セカンドとサードの間に広がる、半径数メートルのSacred Zoneを死守する彼をもう少し、いや少しでも長く、黙って見つめていたい。

2007年04月19日

長崎市長殺害事件について

昨日の長崎市長殺害事件は、本当にショッキングな事件だ。

報道を読む限りでは、犯人は二〇〇三年に市道工事現場で自分の乗用車に傷がついたことで市とトラブルになり「市の対応に我慢ができず、頭にきていた。市長を殺し、自分も死んでも構わないぐらいの気持ちでやった」と供述。しかしここ二年間、容疑者と市側はまったく接触がない。

彼は、伊藤市長や市の担当者を刑事告発したり、自身のホームページに主張を掲載し続けたりしていた。ただ市長への面会要求は一度もなく、市の担当者は「軽微な事案」と市長にはトラブルを報告していなかった…のだ。

つまり、これらの事から判断すると、伊藤市長は,見ず知らずの人間に、本人は全く認識してない事のために、撃ち殺されたということになる。こんな不条理な話があってよいのだろうか?

また、更にショッキングなことは、本当に平凡な地方都市で、突然前触れもなく短銃が発射されるという異常性。

「言論を暴力で押さえ込もうとすることは、絶対許されない」という、ピンボケな発言をしていた政治家がいたが、この事件の不気味さは、そういうことではない。報道によれば、この事件後、各地方選の候補者のなかには、防弾チョッキを着たり、ボディガードをつけたりしている人もいるらしい。

もし、言論VS暴力ということであれば、そんなわかりやすい構図はない。薄弱な理由により、普通の街角で、人が一人短銃で撃ち殺されているということに、恐ろしく深い闇を感じるのだ。

2007年04月17日

ニューズウォッチに勤める私がみたニュースウオッチ

俺の所属する会社は、「ニューズウォッチ」というのだが、今日食事をしながらNHKをみていたら、やっている番組名が何と「ニュースウオッチ」。(汗…なんてかかない。凄く今日は寒い)

何故か、最近横にそれることが多いのだが、余り気にせず、横にそれると、以前、50歳くらいのコンサルタントの方から、以下のようなメールをもらった。

大変ご無沙汰しております。(汗)相変わらず、バタバタ忙しくて…。(涙)金田さんには、名前を忘れられたりして(笑)<以下(汗)(涙)(笑)を不定期に繰り返す)

本当に、眩暈がした。この自己申告は、一体何が狙いだ。いい歳をした男が、何が(汗)じゃ。この手の、文章が、OKとか、「また、XXさん、お茶目なんだから」みたいに、好感をもって受容される環境というのが、日本には存在するのか?

これと同じ感覚がするのが、SNSでのコメント。当然、知り合いばかりなので、わりと皆好意的なのであるが、「さすがマリリンさんですね♪♪」な~んて感じのコメントをみると血が逆流しそうになるのと同種である。自分のことを、マリリンだのミルキーだの名付けてしまう厚かましさ、「さすがジャスミンさん」とか言って、音符をつけてしまう感性ともに、「怒らないから、帰ってこ~い」といいたくなる。

随分、横道にそれたが、俺のいいたいのは、そういう事ではなくて…。ニュースウオッチの冒頭の報道は、長崎市長銃撃事件であった。衝撃的事件で、現場は警察やら野次馬やらで人が一杯で、騒然としていた。が、問題なのは、一番舞い上がっているのが、NHK長崎のレポーターであったこと。

本部キャスターからの、「手短に現在までわかっていることを教えてください」という問いに、「私は現場から30メートル離れたNHKのオフィスの二階にいたのですが…」と、自分がこの事件を認識したところからの、自分の行動を、時系列に説明し始めた。手短にって言ったじゃん(この人、小学生のときは、作文が苦手だったと思う、恐らく)

焦れた、キャスターが、「それで…」と何かを言いかけると、「そこで…」と声が重なってしまう。キャスターが続きを聞こうと沈黙すると、彼も沈黙してしまう。気まずい沈黙が続いたところで、キャスターが、「それ…」というと、また「そこ…」とカブってしまう。

その後、警察前、病院前のレポートに切り替わって、10分後位にまた現場に、カメラは戻ってきた。

前述記者は、何故かキッタナイ手書きの地図(みたいなもの)をもっている。かなり、大雑把なのだが、やけになった(だろう)キャスターは、「その地図を使って状況を説明してください」と目茶振りをする。

しどろもどろに記者がなったところで、キャスターが「その黒い〇が、市長が倒れているところですね?」と助け舟をだした…が、実は黒い〇は、国道のど真ん中にも書いてある。(間違えたのを塗りつぶしたみたい)

「いえ、左のほうにある黒丸です」とか、慌てて、キャスターが付け加えた時に、その記者は、「私が、居たのがこのオフィスです…」(また自分の説明を一から始めるのか?良く見ると、汚い字でNHKと書いた四角がみえる)

というわけで、現場からのレポートで、視聴者が得た情報は、異常なまでに僅かだったのである(涙)
頑張れ「ニュースウオッチ」 by NEWSWATCH,INC.

*蛇足だけど、我々の社名のオは小さいオ(つまり、「ォ」)です。スじゃなくてズです・

2007年04月14日

最近のブログは、昔話が多いことについて①

「金田さんのブログって、最近昔話が多いですね…」と言われた。暗に、お前ジジイになったのか?といいたいんだろうな…と瞬間ひねくれた。

俺のブログのコアの読者は、直接的な知り合いが多く、しかも彼らの狙いは、俺をからかうのが目的である…というのは、以前も書いたか? 言いたいのは、誠にその通りで、回想シーンが多いということで、ドラマなんかでも、回想シーンが多いと筋が追えない作りの頭脳をもった人はいる。親切な俺は、回想シーンの度に、「ここ回想だから」とマーメイドに教えてあげるのだが、感謝されることもなく、鋭い目つきで威嚇されるのが、おちだ。

どうも、中々前に進まないが、つまり昔話が多いことには、自分でも自覚症状があり、原因もはっきりしている。

それは、全く未来が予測できないから…。どれ位、予測できないからというと、銀座界隈で道々に座っている占い師に、手相をみてもらおうか…という強い衝動に駆られるくらい予測できない。社長が、深刻な顔をして、手相をみてもらっていた…なんてところを社員に目撃されるリスクを考え、この衝動をいつも、ギリギリのところで抑えるのであった。(水晶玉とかタロットカードで、戦略を決めているのでは…という誤解を与えたくないのだ)

未来が予測できないのは、俺が労働法で保護されないタイプの職種であることも、ひとつだが、実際マクロな状態としても、予測が難しい。

最近、購入した本で「現代日本人の意識構造」(NHK放送文化研究所)では、1973年より5年に一度行っている調査を纏めている。

1973年から2003年までの各調査結果をみても、各調査対象の直近5年間でも、夫々の5年間刻みでも、恐ろしいまでの変化が起こっていることがわかる。キーワードを抜き出してみても…

73年 オイルショック直前 大阪万博 浅間山荘 列島改造論 ドルショック 狂乱物価 戦後初のマイナス成長 ディスカバージャパン 三無主義 ゴミ戦争 甘えの構造 超能力ブーム 公害

78年 オイルショック後 ジャパンアズナンバーワン 偏差値 不確実性の時代 熟年 校内暴力 家庭内暴力 ニューファミリー

83年 円高・ドル安 海外旅行ブーム ロッキード事件 戸塚ヨットスクール ロンヤス会談 軽薄短小 気くばり くれない族

88年 バブル景気 靖国参拝問題 男女雇用機会均等法 リクルート事件 昭和天皇崩御 ベルリンの壁崩壊 新人類 DINKS 地上げ屋 サラダ記念日 ノルウェーの森 いじめ グルメ ブランド志向

93年 バブル崩壊 湾岸戦争 ソ連崩壊 Jリーグ 自社さ連立内閣 結婚しないかもしれない症候群 ヘアヌード 少子化 きんさん・ぎんさん 

98年 平成大不況 阪神淡路大震災 オウム事件 神戸小学校殺人事件 和歌山毒物殺人事件 ボランティア 無党派 ソフィーの世界 ポケモン プリクラ たまごっち

03年 平成大不況 同時多発テロ 日韓共催ワールドカップ 狂牛病 拉致被害者帰国 イラク戦争 SARS 貸しはがし IT革命 ワイドショー政治 抵抗勢力 ブロードバンド タマちゃん

夫々のキーワードから、ある傾向が読み取れるような気がしている。
・犯罪は、より悪質、凶暴,残虐性を増している
・日本経済の成長率が落ち、不況下する中、「個人の生き方」「家庭」についてのキーワードが増えている
・バブル崩壊以後、悪いことばかり起こっている

つまり、右肩上がり、全員中流で、頑張れば報われると思っていた日本人だが、成長率低下、バブル崩壊などを経験するに従い、既存のスキームに盲従することに疑問を抱き、各個人の生活に興味を深めていく。政治・社会に対する興味は失われていき、社会性の欠如した子供が、従来では考えられないパターンの犯罪を犯す~非常に浅薄で、ステレオタイプな話としては、そういうことになる。であるから、日本の将来の不透明さが、各個人の未来を予測しにくくしている…のだろう…(アハハ)

な~んて事は、全然思わない。(上述5行は、ジョークです)
こういう知ったかぶりの後づけ説明などに全く意味はない。沢山書いたので、続きは明日。

2007年04月11日

「関連」情報メイニアック

最近、寝ても醒めても考えているのが、「関連」って一体何か?ということ。

ご存知のように、色々なウェブサイトには、「関連」が溢れている。関連ニュース,関連ブログ、関連リンク、関連タグ、関連クリップ、関連情報…は「こちら」!!

もう、これでもかと使われている「関連」という言葉だが、実際何を意味しているのか?
辞書を引くと、「関連」=スル物事の間にかかわりあいがあること…そっけないなあ。

ウェブ上で氾濫している「関連」の意味するところは、例えば関連ニュースだと、同義の別媒体の記事だったりするし、関連ブログだと同じトピックを扱っている別エントリーだったりする。また、関連リンクなどだと、元々のテキスト情報で使われている語句について、説明しているサイトだったりする。

つまり、ウェブ上の「関連」といわれるものの正体は、そのテキスト情報の全部、一部と同義もしくは、その説明をしている内容であり、別に「スル物事の間にかかわりあいがあること」、もっと正確に言うと「かかわりあい」の定義と「かかわりあっていること(物、人)」を表現しているわけではない。

何か、訳の分からない事を言っているが、肝は、多くのユーザーは、この同義の情報群である「関連」情報には、余り反応しないのではないか…と思うわけであるし、実際そうだ。

では、「関連」情報に意味がないかというと、例えばアドセンス、アドワーズのように、ユーザーが読んだテキスト情報、ユーザーが入力したキーワードに関連した広告情報には、ある確率で、そういうものとは無関係にランダムに表示するより、遥かに高い確率でクリックするので、「関連」というのは、大きなファクターのはずだ。

だから、ある文章に対して、「関わり合い」を明確に表示して「関わっているもの」の情報を表示すれば、それなりに興味を惹くに違いないと思うのである。

風が吹けば桶屋が儲かる

風で砂埃が舞い上がる。
その砂埃が目に入り、失明する人が増える。
当時、視覚障害者が就ける職業は三味線弾きぐらいだと思われていた。故に、三味線弾きが増える。
三味線に張る革を集めるため、ネコが大量に殺される。
天敵が減ったことによりネズミが大発生する。
ネズミは柱を食害する。
柱を損傷し脆弱化した家屋が傾く。
傾いた家屋より、屋根瓦が滑落する。
滑落した瓦に当たって死亡者がでる事故が増加する。
死者が増えることにより棺桶の需要が高まる。
故に、桶屋が儲かる。

関連するものは、風、砂埃、失明、三味線引き、ネコ、ネズミ、柱、家屋、屋根瓦、事故、棺桶、桶屋ということで、夫々に「関わりあい」があるってことになる。

「風」の関連語が「砂埃」というのは、自明だし、全然面白くない。「風」の関連語として「桶屋」とでると、ちょっとビックリするし、興味が湧く。思うに、人間が興味をそそるのは、こういう意外な組み合わせではないかと思うし、そこにある「関わり合い」ではないか?

違う表現で言えば、全然違う2つの事象の間には、それらを結びつける「物語」があり、その「物語」には、大きな興味があるということではないか?考えてみれば、凄く飛躍するが、面白い小説というのは、こういう「関係性」を巧みに描いているからに違いない。

金田直之の関連語として、「黄金伝説」なんて表示されると、おおっとドヨメクに違いない。そしてそこに、ピカレスクロマン溢れるストーリーが展開すると、皆う~んと唸るね。

この、主体となる語或いは文章+突拍子もない関連情報+2つの事象をつなぐオドロオドロシイ物語という組み合わせがあれば、意味深い、脳のアンコンシャスな興味を刺激するサービスになるのでは…と思うんだが。

う~ん、激しく混乱している…ここで終り。

蛇足だが、このエントリータイトルは酒井さんのブログ「検索メイニアック」をみて、マイケルセンベロを思い出したことに端を発しているのでした。(この場合は、酒井さん+マイケルセンベロ+メイニアックつながりって関係なんだろうな。「関連」についての考察というより、大喜利に近いな)

2007年04月09日

血液型は変わるんだ

血液型がXXだから、性格がホンニャラみたいな話がある。

実際のところ、A,B、O、ABの四つで、性格を分類するという事自体かなり無理がある。

中学、高校の時の友達5~6人と、正月飲むようになって、既に20年以上経過している。もう知り合って、10年以上経過したときに、経緯はわからないが、お前の血液型は一体何?(くわがた?)みたいな話になった。何とビックリ、俺も含めて、そこにはO型とB型の人間しか居なかったのである。

彼らも含め、長く付き合っている人間は、例外なくO型かB型。「だから、どうなんだ」と言われると、「だからどうなんだとは、どうなんだ」としか言いようがないのだが…。確かに、よく言われる「ロマンチストで恋するO型」は、過不足なく俺の性格を言い当てている。せこくて細かいA型、二重人格で血も涙もないAB型、パラノイアでちょっとイッチャッテいるB型などを考えると、高貴な血液型に生まれた幸運に、身が打ち震える。

さて、この血液型性格判断は、昭和初期になって、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授であった教育学者古川竹二による一連の研究が端緒になり、現在も広く流布しているABO式血液型による性格判断の原型となった…らしい。その後真面目にテストをしてみたが、余りにも例外が多すぎるので、学会でも無視されていたらしい。
ただ、大日本帝国陸軍では、血液型から将兵の気質や能力を分類し、兵科・任務の決定に使おうとしたらしい。マジか?という話だが、実際には、期待した効果がないので、正式採用にはならなかった。

まあ大日本帝国陸軍だけではなくて、1990年11月21日の朝日新聞11面には、「三菱電機発案者の伊藤円冗通信機器事業部長(当時)が血液型をもとにAB型のプロジェクト・チームを結成しており、ヒット商品の開発を目指している」と言う記事も掲載されているらしい

まあ、どちらも、いい大人のやることではない。そこまでやるなら、水晶玉も使ったらどうか?(このプロジェクトチームは、結局常設に至らなかったそうだから、ヒット商品は生み出せなかったんだろう。)

で、長い前振りだったが、血液型は変化するんです!!!

輸血用血液不足を解消 A・B→O 酵素使い赤血球転換
FujiSankei Business i. 2007/4/2  TrackBack( 2 )
 A型やB型、AB型の赤血球を、新発見の酵素を使い、効率良くO型に転換することに成功したと、米ベンチャー企業ザイムクエスト(マサチューセッツ州)やデンマークのコペンハーゲン大などの国際研究チームが2日、米科学誌ネイチャー・バイオテクノロジー電子版に発表した。
 これまでに、B型からO型への転換は、ロブスタ種のコーヒー生豆から抽出した酵素を使う方法が開発され臨床試験まで進んでいる。しかし酵素を大量に必要とするため実用性が低かった。また、A型からO型への転換に成功した例はなかった。 以下略

新発見の酵素とコーヒーから抽出した酵素があれば、AからOへ、BからOへ変わるのね。所詮、血液型というのは、その程度の存在なので、深く人格などに関わりようがな~い。

ただA型だから真面目だとか、根拠のない話を吹き込まれるうちに、A型の子供が真面目になるというような影響はあるかもしれない。人間って弱い動物だから、そういうこともあるだろう。血液型性格判定は、領域としては、医学や生物学ではなくて、心理学のエリアなんでしょうね。

2007年04月08日

赤ちゃんポストに思う

赤ちゃんポストという言葉を、最近よく聞く。最初は、全く何を意味しているのか、想像すらできなかった。

赤ちゃんポストの概要は以下のよう。<フレッシュアイWlikipedhia>

赤ちゃんポスト(あかちゃんポスト)とは、諸事情のために育てることのできない新生児を親が匿名で養子に出すための容器、およびそのシステムの通称である。目的は、望まれない赤ちゃんを殺害と中絶から守ることにある。この仕組みは法的裏付けが十分でないにも拘らず、ドイツにおいて NPO 、キリスト教団体、病院により設置され、2005年現在80ヵ所を超えている。ハンブルクでは2000年の開設以来5ヵ年間に22人の赤ちゃんの命が救われた。日本ではこれまで実例はなかったが、熊本県熊本市の慈恵病院が設置を計画している。

この熊本市の慈恵病院の計画は、以下のとおり。

慈恵病院の計画した「こうのとりのゆりかご」
人目につきにくい病院東側に45cm×65cm大の扉をつくり、内部には摂氏36度に設定された保育器を設置する。新生児が入れられるとアラームが鳴り、医療従事者が駆けつけるという仕組みになっている。監視カメラはつけず、「もう一度、赤ちゃんを引き取りたいときには、信頼して、いつでも連絡してください」といった手紙を置いておく。

なお、ポストに入れるのは生まれてから2週間以内の子どもという条件があり、新生児への命名は市長が行なうとしている。さらに、ポストには母親は匿名で新生児を置く。また、一度ポストを閉めたら、自分からもう一度開けることはできない(つまり開けるには病院関係者をその都度呼ぶ必要がある)。ポストに入れる側にも慎重さが求められることになる。

母親が名乗り出て、自ら育てるか、親権放棄して里親に引き取ってもらうかを決めてもらう。これが大原則。名乗り出てくれない場合は、警察や市役所、児童相談所などと連絡を取った上で施設に引き渡す。

賛否両論、色々あるようだが…

システム上、「子どもを捨てることや育児放棄を助長する」という声があり、また、保護責任者遺棄罪や児童福祉法、児童虐待防止法違反などになるのではないかという意見

「命が救われる可能性が確かにある」と人道面を重視し、「赤ちゃんの命を救い、母親が犯罪者になることも防げる」「預かるのが目的でなく、ポストに手紙を置き相談や養子縁組につなげるのが狙い」だという意見

厚生労働省は「ポストに子どもを置く行為は認めがたいが、違法性があるとは言い切れない」とし、法務省は「確実に安全な場所なら遺棄ではない」と解釈している。

柳沢伯夫厚労相は「設置自体には違法性はないが、病院側の運用には慎重さが求められる」としている。

安倍晋三首相:「ポストという名前に大変抵抗感がある」と述べ、「子どもを産むからには親として責任を持ってもらうことが大切で、そういうお子さんに対応する施設もあるし、匿名で子どもを置いていけるものを作るのには大変抵抗を感じる」
塩崎恭久官房長官:「法解釈以前に、子どもを捨てない策を考えなければいけないのではないか」
高市早苗少子化担当相:「もう少し議論を深める必要がある」

反対派の見解である、子供を産む側の責任として、匿名で子供を置いていけるという状況に対して、容認できないというのは、大変わかりやすい。

ただ、現実問題として、子供を育てることが出来ない事情がある親が存在することは確かかもしれない。彼らを非難することは、容易だが、それだけでは何も状況を解決できない。また、そういった状況で、何も解決策がない場合、中絶、殺害などのオプションを発作的に選んでしまう危険性もないとはいえない。

(本当は、あってはならないことだが)そういう状況時に、本当に安倍首相のいうように、「そういうお子さんに対応する施設」というものが、リアルな解決策としてあるのだろうか?

さて本質的な問題ではないが、この「赤ちゃんポスト」というネーミングがまずい気がする。この名前から連想するのは、子供を気軽に、ポイっとポストの中に入れてしまうイメージだし、「産んだ側の無責任さ」を非常に強調するような俗称である。「諸事情により乳児育成が不可能になった場合の公的養子縁組制度」という名前にすれば、少なくともこの議論における、エモーショナルな部分は、幾分かは緩和したに違いない。

実感として思うのが、赤ちゃんを育てる、正確に言うと成人するまで育て続けるというのは、本当に精神的にも経済的にも大きな負担がかかる。幼稚園から大学卒業まで育てるには、奇麗事でなく、物心ともに大変。生後二週間で、育てることが難しく感じるのであれば、20年間、成人するまで育てるなんて、不可能かもしれない。

それ位深い覚悟をもって,子供を産むかどうかは決断すべき…というのが、「赤ちゃんポスト」の前にあるべき議論なのだろうが、俺もそうなのだが、実際には、無自覚に子供ができて、子供の成長とともに、親も成長して、自覚が生まれるというところも大きいので、中々難しい。

どんどん話がそれて、恐縮だが、子供のいない生活と比較すると、子供のいるほうが、驚くほど起伏に富んでいてエキサイティングな人生を楽しむことができる。エキサイティングすぎるのが玉に瑕なのだが…


2007年04月05日

ワークライフバランス

ワークライフバランスという言葉を最近知った。

ワーク・ライフ・バランスとは
 

仕事と生活の調和のことで、1980年代の終わりごろに米国、英国で生まれた考え方。最初は育児との両立支援が中心だったが、男女や子供の有無にかかわらず、だれもが働きやすい仕組みに拡大され、人材確保戦略の一端を担うようになった。

ふむふむ。

ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和) 生産性上げ ノー残業実現 3月29日読売新聞

残業を原則禁止し、生産性を向上させた(東京都豊島区の同社で) 仕事と生活の調和を意味する「ワーク・ライフ・バランス」という考え方が注目を集めている。人口減社会を迎え、少子化対策につなげたいという国の思惑などが背景にある。だが、「残業大国」の日本で、こうした考え方を、どのように根付かせていけばいいのだろうか。(大津和夫)

無理しない
 DVDを買ったり、妻と外で夕食を取ったり、スポーツクラブで汗を流したり――。「無印良品」を展開する良品計画(東京)の松井忠三社長の平日の夜の過ごし方だ。

 同社は1月から、本部勤務社員を対象に原則として残業を禁止した。生産性の向上を目指した結果、「仕事の終わりを決めるという“締め切り効果”により、長時間労働による無駄や無理を省くことが最善の策」と、松井社長が導入した。

 勤務時間は午前9時から午後6時。やむを得ず残業をする場合は、事前に理由を届け出る。届け出がなく居残る社員には、館内放送や見回りで退社を促す。

 ノー残業の実施に併せて、各自の年間スケジュールと仕事の手順を細かく定めた。それまで頭の中にあった仕事を目に見える形にすることで、誰でも仕事を代われるようにしたのだ。松井社長は「子育て、趣味、勉強など、社員には視野を広げてほしい。仕事と生活の調和は、生産性を上げる武器」と話す。

世の中、不条理なことが多い中、平等なのは,皆1日24時間ということだけだ。そして、その時間の使い方は基本的に自由で、自分の置かれた環境、ポリシーに従って使えばいい。残業を禁止とか何とかは、その自由を剥奪する話だ。そんなこと会社が決めるな…といいたい。「届け出がなく居残る社員には、館内放送や見回りで退社を促す」って、お前は、中学生か?

ノー残業という制度が決まれば、支障なく実施できるのであれば、これまでの残業は、大方「部長が残っているのに、部下は帰れません」みたいな、ガキ同然のメンタリティ集団だったということを意味するだけではないか?

時間のマネジメント権を、会社が一部制約するわけだが、その権利を失った個人って、成熟したオトナではないだろう。

少子化対策の柱  ワーク・ライフ・バランスとは、だれもが働きやすい仕組みを作ること。日本ではここ数年、少子化対策に連動する形で広まった。  政府は1994年に「エンゼルプラン」を策定して以来、保育サービスの拡充などに力を注いだが、効果は上がらなかった。こうした中、仕事と生活の調和を図ることが出生率回復につながるという考え方が広まり、2004年策定の少子化社会対策大綱には重点課題として明記されるなど、少子化対策の柱に掲げられるようになった。  民間では、社会経済生産性本部(東京)が昨年6月、国や自治体に基本計画の策定を求める「ワーク・ライフ・バランス推進基本法」の制定を提言。8月には、経済界、労働界らの代表約100人で推進会議を設立した。  一部の先進企業は、合同で研究会を作り、情報を交換している。背景には、労働力が減る一方で、女性の7割が出産を機に離職しており、「せっかく育てた女性が退社するのは損失」(電機メーカー幹部)という“コスト意識”がある。 働く側も、仕事一辺倒の生活は望んでいない。内閣府が06年1月に実施した「男女の働き方と仕事と生活の調和に関する調査」では、性別、結婚の有無に関係なく、「仕事優先」を希望した割合は1、2%程度に過ぎない。

ワークライフバランスを取るのは、個人であり、会社ではない。で、ワークライフバランスをとる施策の典型が、もし残業廃止であるならば、全然出生率とは関係がない。

また、出産を機に退職するのは、会社の制度の問題である。大体、日本企業など、女性が結婚後もしくは出産後働いたり、マネジメントを行ったりを、全然想定せずに各種スキームを構築しているのであるから、その辺の意識改革をするべきだ。

生き残りに必要  長時間労働を是正するにはどうしたらいいのか。

 今国会に提出される予定の労働基準法改正案には、残業抑制策が盛り込まれている。現行法では、労働時間が1日8時間を超えると、平日で賃金の25%以上の残業代を支払うことになっているが、改正案ではこの規制を強化。月80時間を超えた場合の割増率をアメリカと同様、50%以上とした。

 だが、サービス残業が横行している日本では、「法規制を強化しても、仕事全体の量を変えない限り、未払い残業が増えるだけ」(あるIT企業幹部)といった見方が根強い。

 富士通総研の渥美由喜主任研究員は、「日本流の仕事の進め方を見直すべきだ」と主張し、具体策として、〈1〉会議や意思決定の手続きを簡素化する〈2〉各自の仕事の範囲と成果を具体化する〈3〉仕事を目に見えるようにして共有できるようにする――などを挙げる。冒頭で取り上げた「良品計画」も導入している欧米流の仕事法だ。

 「国際競争で生き残るためには、不可避の作業」と渥美氏は話す。

ワークライフバランスと、残業がどういう関係があるというのか?日本流の仕事の進め方なんていうものがあるのか?大体、国際競争って、何をどう競争する話なのか?ワークライフバランスに関わる話は、どれもこれも、ぼんやりした話がごっちゃになっている。

「良品計画」が導入しているのは、別に欧米流の仕事術ではなくて、「放課後はクラスルームに残って、コックリさんはやめろ」みたいな中学校・小学校レベルのルールだ。

  

ワーク・ライフ・バランスは、海外でも注目されているが、取り組み方は様々だ。

 イギリスでは2000年からキャンペーンを始め、企業に経済支援を行うなどの施策を実施。オランダは同年、労働時間の増減を使用者に要請する権利を労働者に認める労働時間調整法を制定した。スウェーデンは05年、勤続2年以上の労働者を対象とした最長1年の休暇制度を導入した。

 日本では、残業を前提とした働き方に問題があるというのが、専門家に共通した見方だ。

 日本は世界有数の長時間労働大国だ。1週間に働く時間が50時間を超える労働者の割合は、日本が28・1%と先進国トップ。厚生労働省の調査だと、04年の労働者1人当たりの年間の平均労働時間は1834時間で年々減少しているが、これはパートら短時間労働者が増えたことを反映した見かけの数字。週60時間以上働く人の割合を93年と04年で比較すると、10・6%から12・2%と増えた。

 過重労働に伴う脳・心疾患の労災認定件数は、年間310件を超える。日本の労働生産性(04年)は経済協力開発機構(OECD)加盟30か国中19位。日本女子大の大沢真知子教授は「労働者の健康まで害しかねない今の働き方は持続性に乏しく、生産性も低い。少ない労働力で労働の質を高める意味で、長時間労働の是正が不可欠」と語る。

過重に働くかどうか等、本来個人が選択することだ。日本の会社では、足に鎖をつけたり、鞭で打ったりして、無理やり残業させているのか?(そういう会社もあるのかもしれないが、そういう会社は辞めればよろしい)

この手の話で、いつも違和感を感じるのは、「会社」という名の擬人化された、独裁者がいて、意に沿わない労働者を無理やり働かせているような印象がすることだ。master of timeは、個人であって会社ではない。

長く働いたら、ワーク・ライフ・バランスは、崩れるのか?そういう定量的な尺度のみで、「調和」なんていう定性的問題を取り上げていいのか?

[プラスα]パパも子育てしたいのに  子供を持つ父親の多くは、子育てにかかわりたいと思いながら、理想通りにはいかないのが現状のようだ。

 ベネッセ次世代育成研究所が、2005年に0~6歳の子供を持つ約3000人の父親を対象としたインターネット調査によると、平日に子供と過ごす時間で一番多かったのが、「1~2時間未満」(27.0%)。2時間未満の人の合計は63.7%にのぼった。

 「理想とする時間」を聞いてみると、一番多かったのが「2~3時間未満」(32.6%)で、逆に70.3%が2時間以上を挙げていた。

 ベネッセ教育研究開発センターが同年、東アジア5都市で行った幼児の父親の帰宅時間についての調査では、22時台以降に帰宅する父親は東京が39.7%だったのに対し、ソウルが21.5%、台北が10.0%、北京が9.5%、上海が8.5%と東京が際だって多かった。子供とのふれ合いの時間を増やすためには、まず帰宅時間から見直さないといけないのだろう。

「父親は子供とのふれあいの時間を多く持つべきだ」なんていう、ステレオタイプの話に、ロックされた論調には、もう辟易する。本当に、「ふれあいの時間」なんぞがそんなに長く必要なのか?時間より密度ではないのか?誠実に仕事や生活に取り組んでいる姿をみせることの方が、重要ではないのか?東京と台北とソウルと比較して、何が分かるというのだ。

誤解を避けるためにいうと、俺は以下のことには大賛成だ。
・子供をもった女性が働きやすいように、弾力的な勤務スキームを作る
・会議や意思決定の手続きを簡素化する
・各自の仕事の範囲と成果を具体化する
・仕事を目に見えるようにして共有できるようにする
・質の高い仕事をする
・通勤時間を短くする

ただ、こう言いたい。
・働く時間が長いから、生活と調和がとれないのか?そういう単純二元論で討議すべき話か?
・働く環境が、苛酷であったり、異常なものであれば、その環境を変革するか、新しい環境に移るかは、個人の意志だ。
・仕事と生活の調和なんて、個人の問題だ。
・国際競争力、出生率、欧米流仕事術、日本流仕事術など、定義不明、意味不明なことと、仕事と生活の調和という全然違うはなしとごっちゃにするな
・大体、仕事と生活って「調和」させるべきものか?「生活」のごく一部が仕事ではないか

ということで、時間を有効に利用して、より良く充実した人生を過ごせるかどうかは、独立、成熟した個人の意志に基づいたタイムマネジメント能力によるものであり、個人が,master of timeであることが、まず第一であると思うのである。

2007年04月04日

黒川紀章は、マジでヤバイ

都知事戦も終盤戦だが、石原氏リードの報。

ただ、5割は、誰に投票すべきか決めかねているとの調査結果。誰が勝つのか、さっぱりわからない。

こんなに混戦になるのも、凄く控えめに言って、可笑しい候補者が多いからに違いない。現職が、まああの方ですし、対抗の民主党候補(にいつの間にかなってしまった)あの人も、ちょっとだし、とは言え、桜金造氏に投票する度胸はないし、ドクター中松に投票するのは、畏れ多い。

非都民としては、都民の皆さんに、かなり同情はしている。

さて、候補者の中で、もう気になってしょうがないのが、黒川紀章氏。世界的な建築家として、勿論名前は知っていたのだが、こんなにお茶目な人とは。
(お茶目なんていうほど、生易しいものではないが)

主な受賞歴 1965年 - 高村光太郎賞 1978年 - 毎日芸術賞 1986年 - フランス建築アカデミーゴールドメダル 1988年 - リチャード・ノイトラ賞(米国) 1989年 - 世界建築ビエンナーレ・グランプリ・ゴールドメダル、フランス芸術文化勲章 1990年 - 日本建築学会賞 1992年 - 日本芸術院賞 2002年 - 国際都市賞(スペイン:メトロポリス協会) 2006年 - 文化功労者
主な作品 中銀カプセルタワービル 名古屋市美術館 和歌山県立近代美術館嬉野温泉和多屋別荘タワー館(佐賀県嬉野市) 福井市立美術館(アートラボふくい)(福井県福井市) 寒河江市庁舎(山形県寒河江市) 中銀カプセルタワービル(東京都中央区銀座) 福岡銀行本店(福岡市中央区天神) 国立民族学博物館(大阪府吹田市千里万博公園) ソニータワー(大阪市中央区心斎橋筋) その他きりがない位

恐らく、凄い人なんだよなあ。でも、報道だけみると、ハッチャケぶりが、限度を超している。

「首都機能を一部移転し、霞ヶ関にできる空き地に格安高層マンションを200棟作る。江戸時代の八百八町にならい、商店街の空き店舗を利用して福祉や医療、娯楽の拠点を作る」
う~ん、どういうことだ?何故今、八百八町?
「まずは、ヘリコプターを3億で買う。あと2億は、一人乗りのヘリを買おうと思っている。真っ赤にして、赤とんぼのようにしたい」(都内100ヶ所をヘリコプターで遊説するらしい)

赤とんぼのようにしたいのか??? ふ~ん

浅草おかみさんの会の祝賀会に出席し、「赤いハンカチ」と「みちのく一人旅」を熱唱

選挙運動ですらない。カラオケ大会か?

(浅野史郎氏がプレスリーを披露したことに)「あれは小泉のマネ。へたくそ」 「吉原に行ったことないが、一度は行ってみたい」

一体何なんだ?

(六本木では数人だった聴衆も上野公園では約100人に増え)「やっぱり私は下町のナポレオン」

焼酎と何か関係が?

(週末に向けてさらなる秘策がある様子で)「私の双子の弟が現れたり、女優の菊川怜が私の娘と発覚したりするかも…。フフフ」

た、たすけてくれ~

「4日の個人演説会で、妻の若尾文子と手をつないで舞台に上がります」「舞台では、『銀座の恋の物語』をうたいます」

若尾文子は、本当にいい人だと思う。ホント、しみじみそう思う。

というわけで、黒川紀章は、メラメラ燃えている。何故だかわからないが、エンジン全開だ。ホントに、ヤバイ。もし、何か間違って当選したら、マジで、ヤバイ…のではないか?

2007年04月02日

上田知事の発言について

「お里が知れる」という言葉がある。

どんなに配慮をし、隠そうとしても、その人の本質~どういう教育を受けたか、どういう環境で育ったかなどが、ふとしたところで露呈してしまうということ。俺自身、どんなに悪ぶっても、ヒューマニストであることは、隠し切れない。どんなに辛い目にあっても、育ちがいいせいか、おっとりしてピュアであることは、変えられない。面の皮が厚そうだが、その実、傷心の余り、涙にむせんでいることは、陰のある後姿が雄弁に物語ってしまう。(まあ、これ位でいいかな)

さて、上田知事。

「自衛官は、人殺しの練習をしている」 上田・埼玉知事2007年04月02日19時32分朝日新聞
2日行われた埼玉県の新規採用職員の就任式で上田清司知事が「自衛官は人殺しの練習をしている」と発言し、後に「適切ではなかった」と釈明する一幕があった。

 発言は県庁職員としてのやりがいなど、使命感について触れた場面であった。「自衛官の人は、平和を守るために人殺しの練習をしている。警察官も、県民の生命や財産を守るために、人を痛めつける練習をする。だから我々は『偉い』と言って褒めたたえなければならない」と話した。 以下略

自衛官は、災害のときに、自らの危険を顧みず救済活動などを行っている。勿論、攻撃を受けた時、国土防衛のために、適切な軍事行動をとれるように、平時においても、訓練をしているのだが、それをもって、「人殺しの練習」とは…。信じ難いまでの、歪んだ見方だ。

警察官は、「人を痛めつける練習をする」って、どういう認識なのか?道のわからない人に、優しく教えるのも警察官だし、交通整理をするのも警察官だし、勿論犯罪から我々を守って日夜努力しているのも警察官である。

上田氏曰く、「マイナスの仕事がある自衛官や警察官と比べて、県庁の仕事は多くの人に喜びを与え、自らも喜びを感じられることを説明したかった。」とのことだが、この御仁の考えるプラスの仕事、マイナスの仕事という、軸の持ち方が、薄ら寒いし、一般人の共感を勝ち得ないのではないか。

不適切な発言と咎められた上田知事は、「”人殺し”のかわりに”殺傷”とかそういう言葉を使えば良かった」と話した…とのことであるが、このコメント自体で、彼が何を問題視されているか理解していないことを、図らずも露呈している。

つまり、この知事は、自衛官と警察官という、社会で大切な役割を果たす職業に対する、基本的というか常識的な理解が欠如している。更にいえば、ベーシックな職業観が歪んでいるのではないか?

職業選択の自由はある。しかしながら、音痴が歌手にはむかないし、絵を書くのが苦手な奴が、画家にはなれない。歪んだ職業観を持つに至った経緯は、もしかすると、涙なしには語れない同情すべきものがあるかもしれない。でも、そういうことを、どれだけ割り引いても、県知事には、むいていないのではないか…と元埼玉県民は思います。