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2006年08月31日

2016年夏季五輪国内候補地は東京に

2016年夏季五輪国内候補地は東京に決定した。

報道によると、東京都のセールスポイントは
1.半径10キロ圏内に28競技中26競技の会場を配置する「世界一コンパクトな大会」を実現できる高度に発達した都市機能
2.国際的な知名度の高さと財政力
 
対する福岡は
1.「150万都市の挑戦」をコンセプトに、博多湾を囲むように三つの会場群を配置した綿密な計画

ということだが、結局競合であるサンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、リオデジャネイロなど他都市に勝つという観点から、東京都が選ばれたとのこと。

この選挙は、JOC役員25人、国内競技団体代表者30人の計55人の選定委員の投票で決定される。

この決定には、素朴な疑問を感じる。

・東京への一極集中を緩和し、地域への分散を図らなくてはならないという状況下で、日本にとって最も適した候補地が本当に東京なのか?

・実際のホストシティは何れかの都市がなるとしても、日韓ワールドカップのように、日本各地域での開催をするほうが、様々な地域への波及効果も大きいのではないか?

・「半径10キロ圏内に28競技中26競技の会場を配置」にすることに、何のメリットがあるのか?

道州制など議論に上がる背景としても、地方主権で行政を推進し、地域活性化を図るニーズが高いという状況がある。アピールしていたように「高度に発達した都市機能」をもつ東京で、オリンピックを開催しようという決定が、本当に10年後の日本を見つめた正しい判断だったのか?石原都知事のいうように、東京にとっていいことは、日本にとってもいい事かどうかは、大きなクエスチョンだと思う。

2016夏季五輪

2006年08月30日

ブリトニー・スピアーズ

ブリトニー・スピアーズのポスターを巡って色々と論議があったらしい。

ある雑誌の広告で、妊婦のブリトニーが、手で胸を隠しただけのセミヌードで写っている巨大ポスター。東京メトロの表参道駅に掲示されている。

当初、東京メトロは、余りに刺激的で、青少年の教育上良くないという理由で、下半身を黒いシールで隠すよう求めたが、反対意見が多く、そのまま掲示ということになったらしい。

ウェブで掲載されているポスターを見る限りでは、今日これくらいで、何かとち狂ってしまう青少年など存在しないような気がする。下半身を黒いシールで隠すほうが、かなり隠微な感じを与えてしまうような気がする。

ブリトニーといえば、ルイジアナの片田舎から16歳でデビューし、アルバムセールス5400万枚というスーパースターなのだが、このポスターをみると、そういうスターのオーラは全く感じない。それよりも、母親になる喜びに溢れていて、気持ちが和む。暖かい笑顔を浮かべていて、本当に幸せそうだ。セクシーボイスでイケイケだったおネエちゃんが、聖女に変身してしまう。女は、本当に恐ろしい生き物だと思う。

思うに、男はこういう劇的な変化はしない。少しづつ、年をとるだけ。それに引き換え、女は、どんどん変身していくし、子供を産んで育てることができる。何処の国の兵士も、最期に叫ぶのは「お母さん」で、「お父さん」なんていう奴はいない。男は、生まれたときから絶対的に不利だと思うんだけど...。

ブリトニー・スピアーズ

2006年08月28日

ラフ

あだち充のラフが実写化される。先日タッチの映画版を放送していたが、ホント、キツカッタ。

あだち充作品はここ数年、このラフをはじめH2、タッチと次々ドラマ化、映画化されているが、かなり由々しき事態だと眉をひそめている…というほどでもないか。

ご存知のように、彼の作品の骨格は常に同じ。
1.AはBを好きだ
2.BはAを好きだ
3.AとBにとって、影響を与える人間群C(多くは2人、時に1人)がいる。同級生、幼馴染、弟、妹くらいのバリエーション(ただ義理だったり、双子だったりする)
4.AとBはとても優しくて、Cの気持ちなどを深く考えてしまい、中々お互いの気持ちを打ち明けたり、関係を深めたりしない…ので、読者はやきもきやきもきする。

なので、主要登場人物が出揃ったところで(大抵一巻なのだが)、読まなくても大体内容はわかる。(やっているスポーツが違うくらいである)

ドラマ化して、面白くない理由は、やはり上記の1~4のパターンが決定的にリアリティを欠いているからに違いない。AはBが好きだ&BはAが好きだ、しかもお互いの気持ちは理解している…という段階で、現実社会では、2人はいい仲だろうし、幾ら色々あったとしても、取りあえず楽しくイチャイチャしたり、まあそれなりに現実に折り合いをつけたりするでしょう。現実は、あんなにピュアではない。

アニメ化でもかなり辛い。理由は、音声化すると、聞いちゃいられない。登場人物は、ナルシスティックかつ独善的なので、文字で読む分にはそれほどでなくても、音声にするとかなりキツイ。

ということで、あだち充の世界は、コミックの中に留めておき、高校生の気分になりたいときにパラパラめくるのが良いのではないか?(実際には、ああいう高校生はいないんだけど)

昔、大学近くの喫茶店に行くと、大抵「みゆき」か「タッチ」が置いてあった気がするなあ。

因みに、フレッシュアイNewswatchでの、ラフ関係の記事は、長澤まさみトピックに沢山入っているのでご確認くださいね

渡嘉敷島集団自決は捏造だった

所謂イメージというものがあり、事実を認識することを阻害することがある。

第二次大戦中、日本軍が残虐で、非人道的であるというイメージは、かなり確立されたものがある。でも、よく考えると、戦争というそれ自体残虐で非人道的で異常な状況にあって、日本軍だけが残酷であるということは、ありえない話である。

また、戦前、戦中、戦後で、日本人は、日本人として連続性をもち、司馬遼太郎のいうように、明治時代の栄光と矜持に満ちた日本人が、昭和初期の20年間だけ、狂ってしまって、全てをぶち壊したということも、考えにくい。

この度、長い間、軍から強制自決の命令を受けて、315人の島民が集団自殺したといわれていた、「渡嘉敷島集団自決」が、遺族達に傷病者戦没者遺族援護法を適用するための捏造であることがわかった。

これまで、事実とされていたのは、1945年春、慶良間列島の島々が激しく米艦隊砲射撃にあった際
1.赤松元大尉は、住民が軍陣地に避難することを拒否し、自らは安全な壕に避難
2.赤松元大尉は、住民に自決命令をだした
3.結果、300人以上の住民が、悲惨な集団自殺をした

今回、元琉球政府職員のインタビューにより、事実としてわかったのが、
1.軍陣地は、攻撃が集中して危険なので、最初から民間人をいれるという考えはなく
2.赤松元大尉は、住民は非戦闘員なので、生きられる限り生きてくれと言っていた
3.戦後、貧困にあえいでいた住民が、厚生省の援護課に、援護法の適用を要請したが、「自決が軍隊の隊長の命令なら適用することはできる」といわれた
4.赤松元大尉は、貧困にあえいでいる住民を救うため、捏造された自決命令書に印を押した。

ということで、これまで、残虐で非道の指揮官とされていた赤松元大尉は、住民の為に自ら十字架を背負ったのであった。この事件の不透明さは、既に3年前曽野綾子氏の取材により指摘されている。その指摘によれば、この事件の鍵を握る証言者は未だ存命であるにもかかわらず、「週刊朝日」の記者を除いては、大きく取り上げた新聞社の記者、「沖縄ノート」で赤松元大尉を激しく攻撃した大江健三郎氏も一度も現地で取材はしていない。

勿論、そういう自決命令がなかったとして、行き場のない住民に自決以外の道があったのかということはある。しかし、その過酷な状況は、赤松元大尉が負うべき責任でもなければ、彼に対するこれまでの、(恐らく)根拠の乏しい批判が、正当化されるものではない。

今回判明したこととして、赤松氏は死の3ヶ月前、もう寿命も長くないので、真実を公表し、名誉を回復したいという意志を示していたが、援護法適用が取り消しになることを恐れた関係者は真実を明らかに出来なかったらしい。

創られたイメージが広がることは、非常に恐ろしい。このように、正反対の事実が、日本の歴史として認識され、日本人の精神をゆがめ、罪もない人間を過酷な状況に追い込む。

戦後教育を受けたものにとって、昭和初期の20年は、暗黒の時代で、全てのものは悪であるという認識を持たざるを得ないような教育を受けた。しかし、もう一度、戦争を知らない世代のクールで、客観的な視点で、現代史を検証するべき時が来ているのではないか?何が、真実で、何が真実でないのかという検証・総括を終えない限り、日本の戦後は永久に続く。

2006年08月26日

子猫殺し~坂東眞砂子さんのロジックについて

坂東眞砂子さんが、子猫を殺していると言う話が話題になっている。

粗筋は、
1.彼女は猫を飼っている
2.猫に避妊手術をするのは、飼い主の勝手で、子猫を殺すのと変わりないと思っている
3.そもそも、愛玩動物として獣を飼うこと自体、人間の我儘であると思っている
4.人間は、子猫を殺す権利もなければ、避妊手術をする権利もない
5.飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない
6.自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した

1~4までは、そういう考えかたもあると思うのだが、5,6が、全く意味が通じない。
飼い主には、避妊手術をする権利もなければ、避妊手術をしなかった結果、生まれた子猫を殺す権利もないと考えるのが、1~4の流れではないのか?
6に至っては、…。子猫を殺すことが、何故社会に対する責任を果たすことになるのであろうか?子猫を殺すことが、何故猫の「生」の充実を選んだ…ことになるのだろうか?

彼女の主張の根底としては、「死を隠蔽した都会生活では、生の充実が得られない」というのが、あるらしいが、罪もない子猫を崖から投げ落とし、殺して得られる「生の実感」に何の意味があるのか?

殺人者のパターンとして、他人を殺すことによってしか、生きている感じを味わうことができないという、異常なタイプは存在するが、まさに、この作家が言っているのはそういうことだ。

報道によると、彼女は子犬も殺しているらしい。これらが事実だとすると(何かのメッセージを投げかけるための創作でなければ)、人格破綻者以外の何物でもない。

というか、話として不気味すぎて、何か悪い夢をみてしまいそうで、怖い。(これが普通の感覚ではないのか?)

2006年08月25日

会社の中でしか使わない言葉

「ほぼ日」編の「オトナ語の謎」を娘から借りて、読んでみた。

会社でしか、使わない(らしい)表現が並んでいて、社会人生活が既に20年経過し、感覚麻痺していることに、改めて気付いた。

会社用語の特徴は、大まかに言うと、責任の曖昧化、繰り返し、インチキ英語、短縮形など。いずれにしても、不透明感に満ちている

「~など」、「視野に入れ」…なんていうのは、物事を何となく曖昧にする言葉で、完全に責任回避モード(こういうのを自然とスラスラいえるところが自分でも怖い)

また、「とんとん」「ガンガン」くらいなら、良いのだが、「ほぼほぼ」なんていうのは、「ほぼ」だけでは駄目なんかい…と突っ込みたくなる。でも最近、気付いたら言っていたりする~「ほぼほぼでいいので、数字だしてくれる」

インチキ英語としては、「ニアリーイコール」「アサイン」「アテンド」などあるのだが、これも凄くナチュラルに使用している。「ジョブのアサインの仕方が悪い」…ってねえ。

短縮形としては、パワーポイントをパワポ、メールアドレスをメアドなんていうのは、もう普通。リスケ(文字変換すると利助ででてくるので、いつも笑ってしまう)、ペンド、FYIなんていうのも多用している。

だが、もっとヘンと思うのは、「語り口」系。

1.なんでもかんでも「逆に言う」
「逆に言うと」というのだが、全然逆でなかったりする。また、本論を述べる前に「逆に言うと」と来る場合もあり、何をいいたいのか途方にくれる。

2.何かが、何かの形の中にあるらしい
「~の形の中で」を説明の中で連発する…どんな形?形の中って何よ?(こういう格好で…という変形もあるが、往々にして、どういう「格好」なのかわからない)


3.手前ども!!
案外若くても使う。「手前ども」って聞くと、いつも「越後のちりめん問屋」を思い出す。時代劇と会社の中でしかつかわない。

4.取り纏める&とらまえる
よく聞くボキャブラリーだが、とらまえた事象や取り纏めた結果が、明確になることは稀。

会社のなかで喋っている言葉は、無意識のうちに、8割がたジャーゴンで、意味のある部分は非常に少ない。ビジネス上の人間関係は、お互いに、率直で明快な言語を使わないが故に維持されているとも言える~逆に言えば。(どこが「逆」じゃ?と突っ込んでください)


2006年08月24日

スガシカオをみて才能について考えました

今晩、TVを何の気なしにみていたら、スガシカオがインタビューに応えていた。

30歳からプロに転向したので、中々レコード会社に契約してもらえなかったこと。父親や友人の死に遭遇し、2年間全く曲がかけなかったこと。そんな中でも、音楽はいつも彼を助け、欠落したものをうずめる存在だったこと。誠実に答える姿を見て、如何に音楽が、彼にとって大きい存在であったかを感じた。また、その真摯な姿勢に、引き込まれるように見入ってしまった。

インタビュー後、そんな挫折や逆境を乗り越えようというメッセージを込めて創られた「PROGRESS」という歌を演奏することになった。

良い曲なのだが、どこかで聴いたメロディー、どこかで聴いた歌詞。マーメイドと、「これってミスチルみたいだよね」ということで、久々に意見が一致。

良い歌なのに、ユニークと思えない。繊細で肌理の細かいボーカルだが、言葉を伝えられない。色々な苦労や逆境を乗り越え、その重い経験を唄ったのに、何も胸に響かない。

才能のあるなしは、努力とか苦労とか、全く関係なく、残酷なまでに明白だ。

別段美声でもない、ミスチルの桜井和寿が唄うと、言葉とメロディーに信じられないような力が加わり、思わず聴き入ってしまう。CMでかかった、小田和正の「たしかなこと」を聴いて、泣けてしまう。先日買った、キャノンボール・アダレイの「STICKS」が流れると、我知らず体がスイングしている。

名曲「夜空ノムコウ」も、歌の上手下手関係なく、SMAPでなければ、スタンダードにはなりえていないだろう。スガシカオのほうが、当然歌は上手いのだが、SMAPの5人が歌うことにより、歌詞に深さ、広がり、リアリティが生まれる。

タレントと言ってしまえば、それまでなのかもしれないが、テクニックを越えて、魂を揺さぶるものがある。

スガシカオは、インタビューの中で、「自分くらいの才能の人は沢山いる。でも一歩づつ前に進むことが重要だと思っている」と語っていたが、煌くような才能とは無縁の俺は、とってもとっても共感した。

凡人が天才に追いつくことは、悲しいけれど、ないのかもしれない。ただ、努力し続けることは、それだけで価値のあるものと思う。「ビジネスは結果が全てだろ」とか、格好をつけて日頃言っているが、それだけではないと心底思っている。

ところで、俺の本質は芸術的才能にあり、美しいメロディーとポエムが、頭の中では常に流れているが、楽譜が書けないので、表現できない辛さを、マーメイドにかなり熱っぽく語ったのだが、説明の途中で「ほな、さいなら」と寝てしまった。ひねくれて、不良になりそうな気がする。

2006年08月22日

斎藤君と田中君に思う(2)

うちの息子は、小学校の時から野球をやっている。1~4年生のチームは、のどかなもんだが、5~6年のチームになると、年間80~100試合くらい行う。

息子が6年のとき、ピッチャーをした子が、次々と肩や肘を痛めた。原因は明らかで、小学生にとって50球程度の球数が、1日のマックスで、それ以上投げると、負担が大きすぎるのである。幸い、チームのホームページに掲示板があり、1)50球がマックス、2)よって、投手は分業制にして、1試合3人くらいでまかなうべし、3)一試合における球数は記録をとり管理すべし、4)試合後かならず投手はアイシングをすべし…という提言をした。監督,コーチも非常にフレキシブルで、提言をした直後の試合から、この通りのルールで試合をこなした。結果は、投手分業制にしてから、故障者は殆どいなくなり、かつ驚異的な勝率を記録したのであった。

今回、斎藤投手4連投、田中投手3連投で、それぞれ、800球とか650球を集中的に投げている。これは極めて異常な状態である。

久しぶりにニュースステイションをみたが、古館一郎は何もそういう事に触れることなく、ワイドショー的に斎藤投手を取り上げるだけ。炎天下で数百球連投することを、安っぽいヒロイックな行為として捉えて、何も疑問も感じない様子に、気分が悪くなった。また、駒大苫小牧に対するリスペクトが欠けている感じもして、不愉快である。

甲子園大会の運営には、極めて大きな疑問がある。まず、クラブ活動として教育の一貫として行われるならば、選手の健康を損なうような異常な日程を組むのは誤っている。直ぐ、改善できる項目としても、

1)日程の延長(連戦を避ける)
2)ナイターの実施
3)連投の禁止
4)球数制限

WBCでも、投手の球数や連投には、厳格なルールがあった。高校生のチームに、健康管理上の厳しいルールがあってもしかるべきではないか。炎天下、選手に消耗戦を強い、精神的・肉体的に極限状態に追い込み、涙,涙のドラマを演出するのは、商業的理由か?、夏の甲子園のイメージを守ろうとする大人のエゴなのか?、日本人がサディスティックなのか?

また、エースに3連投や4連投させた監督は、たとえ試合に勝ったとしても、非難に値するのではないか? 斎藤君や田中君のような才能を潰してしまったら、誰が責任をとるのだろうか?

斉藤君と田中君に思う

早実が優勝した。

最近、野球人気が落ちてきたと言われるが、今回の甲子園大会は特別面白かった。サッカー人気は凄いが、早実と駒大苫小牧を見て、絶対にサッカーには、真似出来ない野球の面白さを再発見した。

1.動と静
2.個人の対決

ゲーム中殆どの時間は、選手は動きを止めている。全てが止まった状態から、投手が、モーションを起こし、打者が静かにバットを引き、野手は、前傾を深めていく。投手の動きをトリガーにして、静かな動きが、全体に広がり、そこから急激な動が始まる。
この静と動、緊張状態は、他のスポーツには作れない野球の魅力のように感じる。

田中選手と斉藤選手というタレントの存在が、野球というのは、チームスポーツでありながら、個人の闘いをみせる稀有なスポーツであることに、気付かせてくれた。ひたむきに投げ、ひたむきに打つ。斉藤選手が、試合前に「男と男の勝負をしたい」と言っていたが、将にそれが野球の醍醐味だ。派手なガッツポーズや安っぽい笑顔は、男と男の勝負に必要はない。田中、斉藤両投手の、面構えの何と魅力的なことか。真剣な男って、こんないい顔をするのか、と瞠目する思い。もう一度、気合を入れなおして、自分も頑張ろうという気になった。

田中君、斉藤君がギリギリの局面で全力を尽くす姿には、かなりジェラシーを感じてしまったが、よくよく考えれば、娘の同級生のガキに過ぎないんだなあ(ガキでも凄い奴は凄いってことだな…、二人とも、苗字がえらく平凡だなあ~関係ないけど)


2006年08月21日

早実 斉藤投手とキャノンボール・アダレイ:ポップな人々

ポップかポップでないかは、僕にとって非常に重要な基準だ

「 MUSIG」という番組で、番組ホームページでは視聴者から「似た言葉」を募集し、それが「ロックか否か」佐野元春が判定するというコーナーがある。

佐野元春は、以前FM番組を、毎週聴いていた時期がある。「彼のファンキーなサウンドに、ニューヨークのビートを感じて、僕もとってもインスパイアされています」みたいな、(彼以外が話すと)空疎で意味のわからないコメントを、滑舌よく自信たっぷり話すのを聴くたびに、ちょっとゾクゾクしていた。

このコーナーでも、やはり滑舌よく、「ロックですね」とか「ちょっとロックじゃないですね」とコメントしていて、その基準が物凄く微妙で(というか不明で)、可笑しい。

僕が、音楽を聴く際にも、まさに佐野元春の「ロックか否か」と同じような基準であるが、「ポップか否か」で選択している。このポップか否かは、所謂音楽のジャンルとは、全然関係なく、僕が楽しいかどうか…という凄く微妙な基準(っていうほどでもないが)。これまで、クラシックやジャズは、暗くて、難しいし、ファン層もやたらと理屈っぽい感じの人が多そうな感じがして、敢えてCDを買ってまで聴くことはなかった。

でも、偏見でした。松田聖子と一緒に衝動買いしたキャノンボール・アダレイの、「Mercy, Mercy, Mercy!」。もう、これは完全にポップ。楽しい、楽しい。

マイルス・デービスのバンドで、アルトサックスを吹き、その後自らバンドを結成。キャノンボールという渾名どおり、ぶっ飛んでいる。理屈ぬきに、豪快で、ファンキーで、ハッピー。解説を読むと、この明るさが、ジャズファンには不評で、商業的過ぎると、評価が低いらしい~アホか。1975年に、47歳の若さで、心臓疾患で亡くなっているので、新作がもう聴けないのが、本当に悲しい。

さて、斉藤投手は、今日も、いきなりベンチで、綺麗に折りたたんだハンカチを取り出して、額の汗を拭っていた。苫小牧の田中選手が、ランナー二塁で登場したとき(前回は、二塁三塁で敬遠しているので)解説者が、「今度も歩かせるかもしれませんよ」と言っていた。何と愚かな。彼には、斉藤投手のことが理解できていないようだ。当然の如く、涼しい顔をして、真っ向勝負を挑んだのであった。延長15回で、相手の4番を迎えたときも、いきなり今日最速の147KM。
15回試合をやって、ユニフォームが汚れていない、1塁ベースカバーに入る時にはすり足、試合後のインタビューで明日は完封すると言い切った。(明日は、先発するのかなあ?なんて心配した俺が馬鹿だった)

彼は、とっても、とってもポップだ。

2006年08月20日

松田聖子

最近10万円のベストアルバムが凄く売れているという松田聖子。

他のCDを買いに行ったのに、Bibleというベスト盤を、衝動買いしてしまった。本当に、凄い。感激しました。鳥肌立ちました。懐かしくて泣けました。

松田聖子ほど、レベルの高いポップスシンガーがいるのでしょうか?(いや、いるはずがない)

裸足の季節、青い珊瑚礁での、ピンと張り詰めた高音。赤いスイトピー、SWEET MEMORIESでのシットリしたバラード。Rock'n Rougeでのドライブ感。夏の扉、白いパラソル、ピンクのモーツァルトのポップな感じ。

特に、もうやめてくれ、許してって思ったのは、何十年ぶりに聞いた「ハートのイヤリング」切ないなあ。

このアルバムに入っている曲は以下のとおり。

1. 裸足の季節
2. 青い珊瑚礁
3. 風は秋色
4. オンリー・マイ・ラヴ
5. チェリーブラッサム
6. 夏の扉
7. 白いパラソル
8. 風立ちぬ
9. P・R・E・S・E・N・T
10. 赤いスイートピー
11. 星空のドライヴ
12. 真冬の恋人たち
13. マイアミ午前5時
14. セイシェルの夕陽
15. 赤い靴のバレリーナ
16. スウィート・メモリーズ
17. カナリー
18. 瞳はダイアモンド
19. 蒼いフォトグラフ

ディスク枚数:2
1. ロックン・ルージュ
2. スリーピング・ビューティ
3. ピンクのモーツァルト
4. ハートのイアリング
5. 天使のウィンク
6. ボーイの季節
7. 時間旅行
8. 瑠璃色の地球
9. ストロベリー・タイム
10. 抱いて…
11. あなたにありがとう
12. プレシャス・ハート
13. オール・ザ・ウェイ・トゥ・ヘヴン
14. グッバイ・マイ・ベイビー
15. リスン!!
16. ウィ・アー・ラヴ(イングリッシュ・ソロ・ヴァージョン)
17. クレイジー・フォー・ユー

注文があるとすると、2枚目の11~17曲目までの7曲を次のように、変えて欲しい。

渚のバルコニー(この曲が入っていないのが信じられない。実際どうかしてる)
蛍の草原(SUPREMEという、子供を産んだ後に出したアルバムの一曲目。以前、この曲を満点の星空の下で聞いたことがあるが、別世界にトリップしました)
制服(いうまでもなく、この曲を外すなんて、狂気の沙汰)
秘密の花園(娘と息子の名前は、この曲から取りました)
時間の国のアリス(ユーミン&松本隆は、松田聖子に曲を書くときは、普段より5割り増しに良い曲を書く)
ガラスの林檎(細野晴臣の書いた曲の中で、一番良いのではないか)
小麦色のマーメイド(扉、パラソル、バルコニー、マーメイドの4曲は夏のセットでしょう)

それと、1982年に発売された「金色のリボン」を持っている人いたらご連絡お願いしたい。現状では、例の10万円のアルバムを買わないと聴けないらしい。季節外れで恐縮だが、2枚組みのクリスマスアルバムで、驚くなかれ、デビュー3年目で2枚組みのクリスマスアルバムを創っているんです。全曲素晴らしいです。

2006年08月19日

一人旅その2

一人旅にでるという、意志を固めた。

参考資料として、一人旅といえば、青春18切符だろう…ということで「大人の青春18切符」というガイドブックを買った。

青春18切符というと、ナップサックを担いだ学生が、鈍行に乗って、貧乏旅行というイメージがあるのだが、「おとなのふりかけ」同様、「大人の」と付くと、これが一味も二味も違ってくる。

青春18切符をつかうのは、実はほんの一部分で、その近くまでは、いきなり飛行機で移動をしたりする。また想定宿泊所も、ユースホステルではなくて、隠れ家みたいな高級旅館で、露天風呂に、刺身の舟盛りがでたりする。

要は、青春18切符のフレイバーは残しつつ、やっていることは、大名旅行。注意書きとしては、「18切符を使い倒そうとすると、疲れるのでやめましょう」 

かつて、鉄道マニアの口車にのって、西村京太郎もびっくりの、複雑かつタイトな予定をたてた為、常に乗り換えはホームを全力疾走。泊まるのは当然ユースホステルで、いきなり見ず知らずの宿泊者が車座で、自己紹介して語り合ったりする。かと思えば、高原をレンタル自転車で疾走したり、砂丘を駆け上ったり、車輌で酔っ払って唄ったり。今考えれば信じられない。でも、とっても楽しかった。

時は流れて、こういうトライアスロン系の旅行は、もう出来そうにもない。じゃあ、どんな旅を?

ということで、まだまだ入り口のところで、ウロウロしている。ある意味、もう旅は始まっているのかもしれない。(この週末は、コンセプト固めだ!!)

2006年08月18日

一人旅

頭の疲れがとれなかったり、煮詰まったり、肩凝ったりしていたが、これは、やはり一人旅にでなくては…と唐突に思いついたりしている。

で、今少しづつ、密かに、一人旅に出るべく気持ちを盛り上げているところである。予定としては、かなり盛り上がってきたら、何処に行くか決め、緻密な日程を立てて…みたいなステップで前に進めて行こうと思っている。(こういうのが、既に仕事モードなんだなあ)

旅のテーマとしては、興味のある歴史上の人物を選んで、その縁の地を訪れていくような…と思っている。行った先では、写真を撮ったり、短歌を詠んだりして、思いを馳せていく。出来れば、紀行文のようなものを、このブログにかければ、一石二鳥だ…と、これまた、どこまで行っても俗世から解脱できない私でした。

興味のある歴史上の人物ということで、ぱっと思い浮かぶのが、長年ファンである高杉晋作。ご存知のように、明治維新は、彼が60人位の兵を率いて、自殺的旗揚げをしたところから始まった。ある意味、狂気の人でもあり、開明的な人でもあり、洒脱な趣味人でもある。

彼の縁の地は…と思って、はたと気付く。それって、里帰りをするということとイコールではないか。彼が旗揚げをした功山寺という禅宗のお寺は、僕の小さい頃の遊び場であり、彼に惚れこみ、奇兵隊を組織する全ての費用を負担し、全財産を傾けた豪商白石正一郎の墓は、うちの墓の横。

ということで、「歴史探訪の旅」構想は、最初からつまづいているわけである。(行き先を決めるのに、数ヶ月かかりそう)

2006年08月17日

高校野球~早稲田実業の斉藤投手について

今年は、甲子園大会が、やたら面白い。

駒大苫小牧の150KM右腕の田中選手。(負けちゃったけど)尾張の強打者、堂上選手、清原・松井越えの中田選手。少年野球から、育成した八重山商工。甲子園で58勝(だったっけ)智弁和歌山。負けそうで負けない帝京など…キャラクターが揃っている。

そんな中でも、私の注目は、早稲田実業の斉藤投手。最速149KMの速球と鋭いスライダー、フォークボールを投げる、今大会屈指の好投手なのだが、実はある鮮烈なシーンをみてフカ~イ興味をもってしまった。

大阪桐蔭戦中盤で、先頭打者を打ち取った後、彼は、なんとポケットから、綺麗に折りたたんだ凄く清潔そうなハンカチをだして、額を軽くぬぐったのである。

いかにも、粗野な野球小僧みたいな奴が、ダラダラ汗をかいたのを、タオルでごしごし拭うというパターンはよくある話なのだが、エレガントなハンカチをとりだして、マウンド上で顔をきれいに拭いた野球選手を見たことありますか?

見た目も、細身で非常にノーブルな感じだが、容貌とは激しくギャップのある超攻撃的なピッチングをする。中田選手を連続三振に取った時は、完全に三振を取りに行っていた。しかも、ツーストライクを取って、決め球を投げる前に、中田選手を見下ろして、悪魔のように笑ったのである。

普通の中学校で軟式野球をしていた。進学できて、甲子園に出場可能な高校なので、早稲田実業を選び、毎日12時間猛勉強して合格したらしい。

今日の試合も、涼しい顔をして、ホームランを打ってしまった。このまま、大したことでもないように、優勝してしまうのではないだろうか~目が離せません。

2006年08月15日

ゲド戦記

ゲド戦記というのは、巷ではどういう評判なんでしょうか?

もしかすると大傑作ということで、涙涙の大感動を巻き起こしているのだろうか?

すいません、全然意味がわからないまま、エンドマークを迎えてしまった俺が、大うつけなんでしょうか?

ゲド戦記というのは、世界三大ファンタジーなのだそうだ。読んでないので、わからないのだが、名作なんでしょう。恐らく。

舞台になる王国で、疫病が蔓延、龍が互いを食い合うという事態が起こる。アレンという皇子が、自分の父である国王を刺殺し、魔法のかかった剣を奪って逃亡する。逃亡の途中、ハイタカという魔法使いに救われる。ハイタカは、魔法使いのトップで、かつ均衡論者である。クモという女魔法使いがいて、なにやら悪い事をしている。アレンは、死におびえているが、これは生きていくことへの恐れを意味する。全員が何やら意味ありげな「真の名」というのをもっていて、それはとても重要なことで、最後にクモとアレンが対決をして、テルという少女が、龍に変身して、勝利する…って言うのが粗筋だが、既に話が破綻している。

謎と伏線は盛り沢山なのだが、どれも説明しないまま、映画は、さっさと終わってしまう。ハイタカ(ゲドのことらしい)は、人間の愚かさ等雄弁に語るのだが、どれも唐突かつ冗長。

映画館から出た子供が、親に、剣は?真の名って何?龍の食い合いは?結局どうなったの?テルってどうして龍に変身するの?アレンって殺人犯なのに、牢屋に入らないの?って聞いていた。俺も、同じ疑問をもっていたので、耳をダンボの200倍位にしていたが…、そのお父さんは、「アレンみたいな、勇気のある子にお前もならないとね…」みたいことをいっていた。う~ん。

素朴な話としては、ゲドは全然戦ってないのに、何故「ゲド戦記」?謎は深まるばかりだ。

夏休み2&パイレーツ・オブ・カリビアン

この休みは、色々考えることが多かった。

自分の事、会社の事とクールに向き合ってしまった。そんな気は全くなかったのに…。思うに、やはり自分なりに何か対策を打たなくてはいけないことが多いと痛感した。もっと、夏休みは本来、享楽的に過ごしたいものだが、まあしょうがないか。

パイレーツ・オブ・カリビアンを観にいった。こんなこと書くとなんだが、全くつまらなかった。映画館から出てきた人の多くが、「ホント、退屈」って感じのことを言っていたが、同感。凄くお金もかけているんだろうとは思うのだけど、ストーリーがつまらない。ジョニーデップの、役作りがわからない。救いは、キーラ・ナイトレイが可愛いことだけなのだが、彼女が、ジャックスパロウに惹かれてしまう理由も,よく判らない。幽霊船の描き方も、悪趣味といえる位の不気味さ。まあ不気味でもいいんだけど、必然性がない。クエスチョンマークが、50個くらい。

ZAKZAKで

、「この夏のヒット作といえば、まずは『パイレーツ・オブ・カリビアン』。テンポもよく、実にツボを得た作品に仕上がっている。三角関係のもつれ話もあって、まさに大人の楽しめるファンタジー」

ってお盆にみて損をしない4つの映画の一つとして紹介されていたが(残りの3つは、紙屋悦子…、スーパーマン…,マッチポイント)、大人も楽しめないし、ファンタジーでもない…と思うのだが。(もしかすると、あの幽霊船の、蛸のお化けみたいな奴をファンタジーといっているのかしら)

2006年08月13日

夏休み

12日から15日まで、弊社は夏休み。

何かず~っと忙しくて、ゆっくりリフレッシュしたいと思っていたが、なかなかどうして。

仕事関連で、やらなくてはいけないことが、かなり気になる。でも、手をつけるほどのエネルギーは、ない。つまりガス欠状態なので、リフレッシュだと思うのだが、何をしたらいいのか判らなかったりする。

恐らく、時間を忘れてしまうほど夢中になってしまうモノをもっていないってことなんでしょう。読書と音楽鑑賞というのでは、日常そのものだったりするので、やる気も起こらない。

以前は、夏休みをどうやって過ごしていたのか考えてみた。学生の頃は、友達と旅行にいったり、英語クラブだったので各地のクラブイベントに行っていた。大学二年のときには、日中友好団で、北京、南京、西安、上海を廻ったりしている。夏は、とにかく旅にでていたことを思い出した。

で、もうちょっとよく考えると、試験休みなんかも使って、色々行っていて、会社に入ってからも、17連休もとって、四国の山の中や広島をうろついたり、北陸に行ったり…。つまり、ちょっと纏った休みがあると旅行に行っていた…ようだ。(あまり自覚症状なしに、外出していたので、よく判らないが)

東京で勤めるようになってから、気付くと休日引きこもり状態が続いている。リフレッシュするためには、やはり、空気の美味しい、景色の綺麗な、人の少ない所に行って、海を眺めたり、夕陽に涙したり、流れ星を数えたり…といった非日常の環境で、感動しないと駄目なんだなあ。

昔は、無自覚に遠出ができていたのに、今は無自覚に家に引きこもっている。独りで、無自覚、無目的に、家を飛び出す「勇気」みたいなものが必要だ。でも、外は暑いし、人も多いし、だるいし、仕事もあるし…なんて事は、ゴミ箱に捨ててっと。

2006年08月12日

ガチャピン日記

ガチャピンが日記を書いているらしい。ガチャピン日記

1973年フジテレビ「ひらけ!ポンキッキ」誕生以来、毎回ぶちかましてくれているガチャピン。

よく知らなかったのだが、「船長」が南の島から持ってきた卵から生まれた恐竜の男の子らしい。年齢は、永遠の5歳…33歳だろ。

最初は、のんびりした内気な性格だったのだが、いつのまにか何でもありになってしまい、スキー、ロッククライミング、ハングライダー、スキューバー,フィギュアスケート、空手…とこなし、調子に乗って宇宙旅行にも挑戦。

で、今度はブログを書き始めたわけで、ざけんな…という感じなのだが…。今日の日記では

最近みんながぼくのブログを見てくれるので、「ガチャピン日記」の取材が いろいろきています。 (^o^) ←みんなのマネ

そんな中、今日はなんとNHKさんの取材がありました。
ぼくもムックも緊張してコメントしました。

ムフフ・・・つぎはCNNからきたりしちゃたりして・・・
調子にのりすぎ?

5歳の子供が、「NHKさん」とかCNNとか言うわけないだろう…ということで、ガチャピンは既に何をやってもOKのレベルまできているのが凄い。現在の日本で、このレベルに達しているのは、長嶋茂雄、アントニオ猪木、最近萩本欽一も到達したような気がする。

ガチャピンって、本当に不思議な存在だなあと思う。設定もいい加減だし、被り物としても、どちらかというと安っぽい上に、そんなにファンタジックなわけでもない。名前も、深い考えなしにつけたに違いない。でも、こんなに愛され、知名度の高いキャラクターってあるだろうか?

本当に、一般コンシューマー向けのビジネスは、深いよなあ…という角度からガチャピンをみてしまう俺は、かなり疲れているんだろうか?

そういえば、毎日アムロちゃんと鈴木蘭々が初代シスターラビッツとして童謡メドレーを歌っていたのは、もう12年前。鈴木蘭々が、EPOの名曲「キミとボク」を唄っていた頃からもう8年経過。

変わらないのは、ガチャピンだけだな。

2006年08月11日

スケボー会社員に赤切符

Back to the Futureをみて、スケボーを始めた人は多いのではないか?

マイケル・J・フォックスが、颯爽とスケボーに乗っていく姿は、とても気持ちよさそうだし、ドクが作ってくれた改良版では、なんと滑空してしまう。僕も、新入社員のとき、スケボーを買って、人里離れた山奥で地獄の特訓をしたものであった。(でも上手く乗りこなすには至らなかった)

スケボー会社員に赤切符

36歳の会社員が、交通量の多い横浜市中区山下町の車道で、スケボーに乗って走行。3回にわたって警察官が車道から出るよう警告したが従わなかった…為、赤切符を切られたという事件があった。

年齢的に言えば、Back to the Future Part1が公開されたとき、彼は15歳なので、ほぼ間違いなく、あの映画を観てスケボーを始めたに違いない。しかし、警官に注意をされても、車道から出ないとは、なかなか命知らず。

36歳といえば、分別が付いてもいい年頃ではあるが、こういう人もいるんですね。

マイケルJフォックスといえば、パーキンソン病と闘病中。パーキンソン病の研究助成活動を行うべく「マイケル・J・フォックス パーキンソン病リサーチ財団」を設立している。また、スクリーンで、スケボーに乗るシーンをいつか見てみたい。

「ジョニー・B・グッド」のハードロックバージョンを演奏すると、余りの激しさに、観客が引いてしまい、ひと言~「君たちには、まだ早過ぎた」~パート1の一こまだが、小気味良いアンちゃんだった彼は、今、どんな親父になっているのだろうか? (僕より一歳年上)

2006年08月10日

雑記(メンター、コーチングの必要性認識)

毎日、忙しく過ごしていると、重要なことを見落とすことがある。

仕事をしていると、日々色々なことが起こり、その対処におわれることが多い。夫々の問題は、複雑であったり、時間がかかったりと、エネルギーを要する。不思議なもので、会社では、というかクラブ活動でも、どんな集団であれ、人が集まれば、必ず種々なアクシデントが起こる。

リアクティブな活動に終始しているうちに、物事の本質を見失うというのが、一番怖い。そういう事態を避けるためには、意識して定期的に、状況を俯瞰的に観察し、必要であれば即座に軌道修正をかけていくことである~言うのは簡単だが、中々できない。

原理原則、方法論などを確かにもっている人と、話しをするのは、効果的な方法なのかもしれない。所謂メンターのような,存在をもち、定期的にじっくり話しをすることにより、見過ごしがちな重要な事柄に気付くことができる。コーチングやメンターに関しては、何かの情報や、教えを乞うというよりは、物事の構造に気付かせてくれる、というようなことが主眼になるであろう。

あくまで、主体は自分。自分の中にあるものを整理する。そうでなければ、コーチングやメンターというのは、スピリッチュアルカウンセラーとか占い師みたいなものになってしまう。

まあ、今日はそういうことを、静かに思いました。

2006年08月08日

甲子園出場辞退の基準

文星芸大付属の野球部員が逮捕された。

かつて、駒大苫小牧で3年生の野球部員が、卒業式の後飲酒喫煙したため、何の関係もない1~2年生チームは春の甲子園大会を辞退し、監督は辞任をした。

また、明徳義塾は、喫煙をした一年生に対し、上級生が暴力を振るったということで、夏の甲子園大会出場を断念している。

これらは、不祥事かもしれないが、刑事事件ではない。今回の事件は、被害者は小指、鼻骨、胸骨などを骨折させられていて、この野球部員が、この暴行事件に主体的に関与しているとの容疑がかかっている。にもかかわらず、文星芸大付属は、お咎めなしで、無事に甲子園出場を果たした。

高野連の処置方法に関しての方針は、一般人には、理解し難い。

元々、部員の中に不心得者がいたとして、だからと言って、出場辞退を強いるというのは、どういう教育的配慮に基づくものであろうか?その本人が、出場不可となり処罰されれば良い話であって、チームが出場を取りやめ、連帯責任をとる必要などないのではないか?

この連帯責任というのは、上級生が下級生をいじめるときに、よく使う手である。一人の不始末があったときに、下級生全員を正座させたり、殴ったりする、陰湿な行為。また、江戸時代の連座の刑も想起させる。

僕の記憶では、運動部の部室には大抵灰皿があったような気がするし、高校生くらいになると酒飲んだり、タバコ吸ったりするのではないか?普通。(違うの?)

何故高校球児だけ、純粋無垢でなくてはならないのか、理解に苦しむ。大体、野球部って、一番ワイルドな連中が集まるので、そんなに純粋無垢であるはずがないのでは? そういうルールは、ボーイスカウトの全国大会なんかで、適用すればよろしい…と思うのだが。

2006年08月07日

239

このエントリーが記念すべき239本目である。

毎日1本書いているという以外の価値は、ない。この毎日書くという事は、案外想像するより大変。

浪人中に、現国に開眼したきっかけとなった「新釈現代文」という参考書がある。その後業務上などで、大量の資料を短期間に、斜め読みしなくてはいけない時にも、大変役に立った、素晴らしい本だが、書いてあるのは以下の2つだけ。

1)公共性の高い文章には、必ず筆者の言いたい事がある
2)読者は、言いたい事を捜し求める追跡者である

追跡のためのテクニックが色々かいてあるわけだが、ブログを毎日書いてみて思うのは、書くべきこと、伝えたいことを毎日持つことは、至難の業であるということ。実際、僕のブログは、書き始めれば10~20分で終了(すいません、推敲ゼロなんです)。一番困難に感じるのは、書く事をみつけること。

会社での出来事は書かない、政治・信条に関しては書かない、家族についても余り書かない…という自ら決めたルールが、大きな壁。家と会社を往復する毎日を送っていて、それはそれなりに面白いのだが、(それ以外に)面白い、スペクタクルな経験をする機会などないし。

日記も継続できた試しがない位の、根気の続かない性格も困難な一因。

どうにか書こうとすると、CD、書籍、映画、毎日の記事、食べ物、興味のある著名人の話などに偏る傾向にあるのでは…と。先日、かなり勇気を奮い起こして、以前書いたエントリーを読み返して、そのあたりをチェックしてみた。

恐ろしいまでの、マンネリズム。何か、同じことばかり書いているようでもあるし、無限ループのように、周期的につながっていたり。毎日搾り出すように書かれたエントリーを読むと、自分のこと、また無意識下の自分が、かなり赤裸々に表現されていたり、う~んと唸ってしまった。

自分の声を、録音して聞いてみると、とても違和感を感じるし、恥ずかしくなる…という経験をお持ちの方は多いと思うが、ああいう感じに近い。

「新釈現代文」的に言うと、非常に公共性に乏しく、個人的な内容なので、追跡不可ということなんだろうなあ…。

それと…花鳥風月についての記述、生活感のある話題が殆どなく、接続詞が存在せず、体言止めがやたら多いというのが、まあ恥ずかしながらマイワールドということなんでしょう~ちょっとヤバイ。

明日から、もうちょっと、マシなことを、華麗かつ多様な表現方法を駆使して書こうと、現時点では、かなり真剣に思っている。

2006年08月06日

司馬遼太郎の作品はフィクションです

「司馬遼太郎と東京裁判」(主婦の友社 福井雄三著)を読んだ。

この本の論旨としては、東京裁判史観に端を発している自虐史観が、日本人の精神構造を支配していて、その自虐史観に、司馬遼太郎の小説が大きく影響しているということであった。

その要素としては、「坂の上の雲」などにみられる、「明治は善、昭和は悪」といった二元論。乃木大将批判と、乃木大将が昭和大日本帝国陸軍の失敗を産んだ~という、陸軍善玉&海軍善玉説。ノモンハン事件記述でみられるような、ロシア・ソビエトに対する好意的な見方。辻政信批判にみられる、エリート、リーダーに対する嫌悪感。

これらから、「明治まで素晴らしかった日本は、昭和に入り、陸軍のエリート軍人の暴走により、合理的精神を失い、暗黒時代となり、戦争に敗れた」という所謂自虐史観を強化する形になってしまった…ということらしい。

東京裁判史観や自虐史観に関しては、色々な見方があるとして、僕が驚きなのは、司馬遼太郎の描く世界を、真実の歴史だと思う人がいる、しかもかなり大勢いる…ということである。

彼は、歴史家ではない。大衆歴史小説家なのである。僕は、司馬遼太郎の愛読者であるが、今まで一度も、彼の作品を歴史書として捉えたことはない。あれは、どうみても、フィクションでしょう。しかも、司馬遼太郎というのは、本当に人物の好き嫌いがはっきりしているので、かなり偏ったフィクションである。

彼の作品から、歴史的事実を認識して、何か歴史観のようなものをもつのは、非常に危険。「巨人の星」を読んで、王貞治や長嶋茂雄について評価したり、「空手バカ一代」を読んで、大山倍達を判ったつもりになるようなものだ。

司馬遼太郎は、潔癖で、男気があって、魅力溢れる快男児に、必要以上に肩入れするところがある。だから、
義経>頼朝、児玉源太郎>乃木稀典、信長>秀吉>家康っていう話になるし、
お気に入りである、坂本龍馬、高杉晋作、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通、真田幸村、土方歳三、勝海舟、沖田総司…という人々は、実際よりも、より格好よく、男っぷりよく、まるで劇画のように、八面六臂の大活躍をする。感情移入が激しいからこそ、彼らは輝き、読者を魅了するわけである。


もし、この筆者が書くように、司馬遼太郎作品と実際の歴史を同一視する人がかなりいるのであれば、それはかなりヤバイ話だと思う。勿論、司馬遼太郎のせいでは全くない。(彼は、自分の好きな人を、ノリノリで書いたに過ぎない)

過去なんか、気にしてもしょうがない

先日、ある方と話しをしていて、ハッとする事を言われた。

「過去なんか、気にしてもしょうがない」

所謂トラウマ~過去、強い肉体的、精神的ショックを受けた事で、精神的に大きなダメージを受け、無意識下に抑圧され、長期間にわたり心の傷となる…という考えがある。

トラウマに関しては、今や一般語。成人の何分の一かは、メンタルケアが必要なレベルと言われており過去のトラウマにその原因を求める事も多い。

しかし、実際には、認識している過去とそれによりもたらされている心の傷は、各人間の仮想現実の中で産み出された虚構性を多く含んだものであることが多い。つまり、過去は、その人の記憶の中で創り変えられる。そして、単純化、省略、追加などが行われて、シンプルなストーリーになったりする。

「過去なんか、気にしてもしょうがない」~まあ当然じゃん…って言う話なのだが…

1)過去があって、現在があるのは、道理。

2)しかし、今認識している過去は、純粋に本当に起こったことではなく、自らの意識の中で、作り変えられた、(ある意味自分にとって都合のいい)記憶であるので、そこに拘泥しても意味が無い。

3)現在、未来に、全力を尽くすべき

…ってことが言いたかったのでしょう。(この人は、因みに医者です)

これまでトラウマ云々の話しを他の人から聞いた時に何度か違和感を感じた。何かTVドラマでこういうシーンみたような…という感覚。本人語る「私の歴史」には、本人の創作部分があることを無意識のうちに感じたのだろう。

「過去なんか、気にしてもしょうがない」って言うのは、当たり前の話だが、改めて他者から言われて、重要性を感じた。

1日24時間しかないのだから、タイムマネジメント上、過去に囚われている時間などないよね。

2006年08月05日

忌野清志郎

先月、忌野清志郎が喉頭がんであることを公にした。

忌野清志郎の曲は、ここ数十年間聴いてきたし、最近では1年に1回、鎌倉芸術館でコンサートをするので、必ず観にいっている。

「新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念できればと思います。またいつか会いましょう。夢を忘れずに!」…彼のコメント。

声帯切除ということも可能性としてはあるらしい。

本当にやるせない。

何十年も、何も変わらない。同じように唄い、同じように跳び、同じようにオドケテみせる。中学生のような歌詞、心の深いところにズンと響くあの声。

ブルースは、黒人が日々の幸せや憂鬱、悲しみ~BLUEを唄ったことが起源。確かに、現状は彼にとって「新しいブルース」なのかもしれない。生き方がすでに、R&Bってことか?

もう一度、彼のコンサートに行ける事を信じて待とう。夢を忘れずに。

2006年08月04日

価値のある生き方

家族と話しをしていて、ちょっと思い出したことがある。

話した内容は、価値ある生き方とは何かということで、名も無く、貧しく、美しくというような、無名の一般市民として、普通に生きていくことではないか?というような話だった。

で、「余り名も無く、貧しく、普通に」で、本当にいいのか?と思ったわけである。

秀吉は、和歌を細川幽斎に学んだ。細川幽斎は、古今伝授を受け二条派正統を継承した当時唯一の古今伝授の伝承者である。勿論、秀吉は、要民出身なので、和歌の素養などゼロ。幽斎から、教えを受けたが、最初はなってなかったらしい。少しづつ修辞法など覚えていく

小説によれば、秀吉は段々独自な世界を確立していく。幽斎は、その歌をみて、自分がただの古典の模倣者であり、纏ってはいるが、深遠な世界には到達していないことを感じていくのだった。
そして決定的な事件が起こる。それは、秀吉が、自らの心象風景を描いた和歌の中で、「柴の庵」と自分の住処を表現したことであった。

秀吉には、装飾の限りを尽くした大阪城、黄金の茶室が「柴の庵」に見え、感じたのである…。幽斎は、秀吉が自分が触れることすら出来ない高みにまで上ってしまったことにショックを受け、秀吉はそんな幽斎を、哀れみの眼差しで見つめる…。

もしかすると、普通に生きていくことによって、何らかの優れた模倣者にはなり得るのかもしれない。しかし本当に価値のあるもの、美しいもの、役に立つものを創造するのは、極めてシビアな精神的、肉体的緊張を強いる。そういった苦しみに耐え継続して何かを追及したものだけが、本物を手にすることが出来るし、そういったことを価値ある生き方というのではないだろうか。

ということで、秀吉が「黄金の茶室」を「柴の庵」と詠んだことを思い出した。織田信長と比較すると、革新性や美意識で劣っていると言われることの多い秀吉だが、このエピソードには、凄味を感じるし、何かの境地にたどり着いた修行僧の趣がある。(まあ、実際には、秀吉は修行僧とは180度違う、快楽的消費の限りを尽くしたわけですが…)