« 鎌倉~新橋間でぼんやり考えました | メイン | 宴会 »

「新人類」の挑戦  このエントリーをはてなブックマークに追加 このエントリー参照しているはてなブックマーク このエントリーをdel.icio.usに追加

このブログを、昔からの友人がみていて、メイルを幾つか頂きました。近況なども聞きますが、随分会わないうちに、皆夫々違う人生を歩んでいると実感します。
我々の世代(40~43歳位)は、20代前半のときに、「新人類」と呼ばれた世代です。新入社員のときに、頻繁に周囲の人に、「お前が新人類か?」と言われて面食らった思い出があります。

「新人類」とはWIKIPEDIAによるとこういう意味だそうです。

...ジャーナリスト筑紫哲也が雑誌「朝日ジャーナル」編集長を務めているとき(1984年~1987年)、10-20代の若者たちとの対談を通じて、彼らの気分・思想・哲学・時代の気分を探ろう、表し出そうと試みた企画があったが、対談の内容やそこで使われた「新人類」という言葉にインパクトがあったため広まるようになる。1986年には流行語大賞に選ばれた。 新しい感性や価値観をもつ1980年代前半に成人した若者たちのことを指す。オタク第一世代と重なる。


中略

成熟した成人として、社会を構成する一員の自覚と責任を引き受けることを拒否し、社会そのものが一つのフィクション(物語)であるという立場をとる。

中略

音楽でもテクノポップの流行など、社会的にも無機質な変容が感じられた時代に、高尚な哲学や思想を語ることも、一種のファッションとしての地位を得た。
世代を特徴づける共有体験として、受験勉強とTV番組や漫画・アニメ、ロック音楽といったサブカルチャー体験を持つのが特徴。旧人類と位置づけられる、戦中・戦後派、団塊の世代にはそれぞれ戦争や全共闘運動など社会を激変させ、個人の価値観や意思とは関係なくその中に巻き込んで運命を変えるような強い共通体験を持っているが、新人類世代にはそのような共通体験が存在しない。

「社会を構成する一員の自覚と責任を拒否し、社会をフィクションとして捉え、サブカル体験をもち、高尚な哲学や思想を語る事も、一種のファッションとなり、共通体験をもたない世代」という説明ですが、この時代の気分としては、かなり的を得た説明のように感じます。責任感が欠如し、人間の存在や意義をとく哲学、思想すらファッションとして捉える、底の浅い薄っぺらな世代という見方もあるのでしょう。

我々は、とても懐疑的な世代だといえるのではないでしょうか?団塊の世代は何かを盲信し、挫折し,転向し…という軌跡をたどっており常に雰囲気に流され、横並び主義で、矛盾にみちているといえます。こういったセグメントに、大きな疑問をもち育った世代が、「新人類」なのです。

20年が経過して、新人類も齢40を超え、会社の中間管理職や、高中小の子供の母親、父親だったりしています。つまり、望むと望まざると、社会を現実として捉え、責任を負う立場になっているわけです。懐疑的であり続けることは許されません。我々世代は、柔軟で多様な夫々の解を、次の世代に示す責任があると思います。

それができて、初めて我々は団塊の世代を乗り越えることができるのでしょうし、「日本の戦後」を真の意味で終わらせる事が出来ると考えます。

If you like this, Please send 1 click to BlogRanking or Bloking. Thank you-☆

このブログを評価する

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mvt.fresheye.com/mt/mt-tb.cgi/64

コメント

Such is life.

コメントを投稿